■2011.8.7
朝起きた状態では、喉の枯れが酷く、熱っぽさはそれなりに下がっているがそれは朝であるためであろうと思われ、これから悪くなりそうな予感ではあった。
朝の6時過ぎくらいに、おばさんがドアをノックしてくれた(昨晩のジェスチャー+筆談だけの会話で、朝7時半に歩いて駅に向かうことを告げておいた)。「ドーブラエ・ウートラ」と言い、またドアを閉めて準備していると、再びノックの音がする。何か伝言でもあるのかと思って開けようとしたが、なんとドアの鍵が開かなくなってしまった。何回も回し直しても開かないため、そのうちにおばさんが窓ガラスをコンコンと叩き、「窓の上にある小窓から鍵を外に投げろ」というようなことを伝えているようだったため、ポイとそれを投げてみた。おばさんが外側からしばらく格闘し、やっとドアは開いたが、たまたまおばさんがいる時だったからよかったものの、もしこれが出発直前だったらと思うと冷や汗ものであった(ちなみにおばさんの追加の伝言は、「出発する際には鍵をここ(他の部屋の入口前にあるカーペットの下)に置いていけ」というものであった)。

@意外とまともな部屋(鍵に問題あり)
昨日と同じ道を戻り、8時前にはティモフスク駅に到着した。ホームには、一昨晩に私が乗ったノグリキ行の1番列車が停まっている。その発車を見送り、さて次にこのホームに入線してくるはずの列車は、私が乗る番968列車である(なぜならこの駅にはホームが1つしかないため)。その列車はすでにホームから3本目の線路上にあり、25両ほどの貨車が連なっており、その先に3両ほどの客車が付いている“貨客混合”列車となっている(日本でも大昔にはあったらしいが、今では見られなくなっている)。

@ホーム中央部分から(乗るべき車両は見えない・・・)
しかし、私以外の乗客はホームの先へ先へと歩き始めてしまっている。どういうことかと思って彼らの様子を眺めていると、どうやら線路上を跨いで自ら乗りにいかねばならないらしい。貨車が25両もあるため客車はかなり先にあり、しかもバラスト(路盤上に敷き詰めておく石)の上を歩かなければならないのである。私は別に構わないが、松葉杖を付いているおばあさんがいて、かなり難儀な様子である。こういったサービス精神のない感覚(列車は動かさずに客が移動する)は、やはりまだ旧社会主義の影を引き摺っているのだろう。

@先に行ってしまった人の後をついていく(まだ遠い)
出発までまだまだ時間はあるが、私も延々と歩いて乗りに行く。混合列車の手前の線路上には係留されている客車が2両ほどあり(おそらく、ノグリキ行の1番列車から外された部分)、そこから車掌が残飯を野良犬に与えている。
混合列車の客車部分の編成は、座席車2両と寝台車1両である。私の1号車は寝台であり、これなら左右どちらの車窓も楽しめることになる。足の悪いおばあさんが数人がかりで助けられて乗車して(ロシアはただでさえ低いホームなのに、それすらなくてバラストから乗るから一大事である)、続いて私が乗ることになった。太めの車掌は「イポーニェツ(日本人)?」と少し笑顔混じりで聞いてきて、座席番号のところを指差してくれる。多少は愛想のありそうな車掌であり、これなら乗車中にあれこれ撮影をしても文句は言われなさそうである(酷い車掌に当たると、森林しかないような風景を撮ろうとしても咎められてしまうのである)。

@やけに遠いと思ったら、客車部分はホームから外れているではないか
車両自体は、少し旧めである。一昨晩にユジノサハリンスクから乗車した車両が一番新しく、車内には外気温やトイレ使用を示す電光掲示があり、折り返しで乗車した車両はそれよりは旧いタイプで(つまり同じ列車に新旧車両が入り乱れている)、今日の車両はそれよりも若干くたびれた感じがしている。
私の部屋には、件の足の悪い体格の良いおばあさんがいた。「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」と言った私に対して色々話しかけてきたが、残念ながらわからないということを身振りで伝えた。窓のすぐ外には見送りらしきおばさんがバラストの上に立っていて、心なしか目元を拭いているようにも見える。窓も開けられないためおばあさんは何を話すというわけでもなく、ただ外を眺めているだけである。本来、鉄道とはこういう「別れ」の状況を作り出す名脇役であったが、高速化が進んだ日本の鉄道では少なくなってきた光景のようにも思える。

@コンパートメントの様子(空いている部屋を車掌が開けた際に、こっそり撮影)
定刻の8時28分に出発したが、しばらくは内陸部を走るため海は見えないことと、少しでも休憩を取らないと風邪が悪化しかねないので、昼過ぎまでは寝ることを中心にすることにした。
北緯50度線には特に目印もないため起きていてもわからないだろうが、その辺りからは確認しておきたい。10時過ぎに起きて外をぼんやり眺めてから、日本統治時代の最北の駅であった(違うかもしれない。詳細は調べていないので)ユジナヤハンダサには10時34分に到着した。サハリンにありがちな水色の小さな小屋の駅舎で、特に何か目立つものもなかった。

@ユジナヤハンダサ駅(この色の駅が多い)
それからまた横になって体力を温存する。駅に着くたびに時刻表を確認してみたが、ほぼ定刻に近い時刻で走り続けているようである。マトローソヴォには12時15分に到着し、すぐに出発していった。暑さ(室温と熱による)のためタオルで顔を拭っていると、おばあさんが「トイレに行けば水があるから、それで濡らしてきて拭いた方がいい」というようなことを言う。理解できた単語は「トゥアリェート」(トイレ)と「ヴァダー」(水)だけであったが。

@トイレの窓から後方の貨車を撮影
その次の駅か次の次か忘れてしまったが、4人の家族連れが乗ってきた。そのうち1人は切符の必要がない幼児ということで3席分押さえているようであるが、どうやらすべて上段のようである。母親がすごい剣幕で「あなたは1人なんだから、隣りのコンパートメントの上段に移ってくれる? こっちは小さい子どもが2人もいて、私は妊娠もしてるのよ! 全員上段なんて無理だわ」みたいなことを言い始めた(すべて想像だが9割以上当たっているはず)。しかし、私は車窓を楽しむために高額を投じてここまで来ているわけである(上段では何も見えない)。百歩譲って体力がまともであれば、下段を譲ってあげてずっと通路にある簡易椅子にいてもいいが、風邪がひどくて座っているのもやっとなのである。ここは心を鬼にして、ジェスチャーすらまったく理解できないふりをして首を振って断った(どうしても下段に座りたければ、車掌と交渉して空いているコンパートメントを開けてもらえばいいのである。それをしないということは、車掌に交渉しても無駄ということを知っているのだろう)。

@そしてポロナイスク駅へ
13時10分頃に、ポロナイスクに到着した。ここでは1時間5分も停車時間があるため、いったんホームに出てみた。駅舎は新しいが、構内には小さな売店があるのみであり、駅前にもこれといった商店もない。咎められない程度に駅舎や貨客混合列車の撮影をしていると、おばさんが大きな銀色の箱を運んできて、なにやら売り始めた。乗客がちらほらと買いに行ったので確かめに行ってみると、ピロシキやマントゥ(饅頭)などを売っていたため、私も指差ししながら買ってみた。

@本当は中身を聞いて買いたいところだが
それを手にしながらコンパートメントに戻ると、足の悪いおばあさんがそれを指差ししながら何やら言っている。今度はわかる単語が皆無だったが、どうやら「それと同じものを買ってきて頂戴」のようであった(おばあさんは大勢に補助されながら乗車して以降、寝ているか座っているかだけで、トイレにすら立ち上がっていない。自力で立ち上がることすらできないのであろう)。おばあさんが50P札を出したので「もっと高い」というジェスチャーをすると、もう1枚出してきたのでそれを手にしてまたホームに降り、先ほどと同じ手順でおばさんから再度購入する。それを手にして戻り、おつりの25Pといっしょに手渡すと「スパシーバ(ありがとう)」と言われたので、「パジャールスタ(どういたしまして)」とお返しする。お店や駅などで何回か繰り返されてきたやりとりであるが、パジャールスタの側になったのは初めてである。

@形で選びました
ピロシキはひき肉にコメが混ざっているもので、マントゥにはニンニクが良く効いていて、どちらも美味しくいただいた。さて、それでもまだまだ時間がある。本来ならば駅近くを散策したいところであるが、ここから先は沿線風景にオホーツク海が広がるため、それを見るためにはここで休息していく必要があろう。寝台に横になり、濡らしたタオルを額に乗せてひたすら休み続ける。時折車両に大きな衝撃があり、どうやら貨車の部分を付け替えているようである。これも本来ならば見に行くのであるが、今回限りは諦めて休み続けることにした。
定刻の14時15分にポロナイスクを出発して、しばらくすると左手に海が広がった。風邪を少し忘れて、通路に立ってその風景を眺め続ける。サハリンらしくない暑さ(外気温はせいぜい25度程度だが、締め切りの車内はかなり暑くなっている)のため、車内はあまり快適ではないが、通路側の窓の2か所だけ、10センチほど窓が開くためそこから気持ちの良い風が入ってくる。

@海その1
しばらくすると、右手には湖が広がり始めた。その所々で、水着姿の人たちが休暇を楽しんでいる姿が見られる。この地域の家々は朽ち果てそうなものが多く、公共の建物も古くて、唯一新しいものが中古車の日本車という感じだが、「豊かではないながらも幸せなくらし」があるように感じられた。
湖が終わると、大量のコンクリート製の枕木が現れ始めた。サハリンでは路盤をロシアと同じサイズ(標準軌)に変える工事をし始めているということを聞いており、おそらくそれのためであろう(現在は、日本が敷設した部分が多いため狭軌である)。

@海その2
時折、支線の路盤が分かれていく。海との距離は付かず離れずで、場所によっては全く見えなくなる。ずっと景色を見ていたいところだが、やはり休憩も必要である。風邪薬以外に、日本から持ってきた解熱剤が2回分ほどあるため、それの1回分を飲み、しばらくコンパートメント内で座って大人しくしている。時刻表によれば、この先のマルコヴォ、トゥマーノヴォ、マカロフでそれぞれ12~13分の停車があるので、座りながら景色を眺める+停車中は横になって休む、を繰り返した。マルコヴォでは、下りの967番列車とすれ違った。あちらも長大な編成の貨客混合列車であったが、客車は2両しかなかったように見えた。

@967と行き違い
些細なことだが、今回の旅の前半からカメラのレンズ内にゴミが入ってしまい、途中からはそれが多くなってしまっている。普通の写真の場合にはわからないが、空や海を写すとそのゴミがくっきりと映るようになってしまった。日本に帰ったら、新しいものを買わないとならないかもしれない。
車内はあいかわらず暑いため、同室のロシア人家族の父親が、車掌に申し出て何やらネジ外しのような工具を借りている。どうやら私たちのいる部屋が非常口になっているようで、どこかを緩めれば窓が開くようなのだが、何をどうしても結局開くことはなかった(つまり、非常口としての意味は成していないということである)。父親は諦め、暑くて赤くなった顔に濡れタオルを掛けてまた寝てしまった。上段はさらに暑いようで、やはり情け心を出して寝台を交換するようなことをしなくて良かったと思った。

@汽笛を鳴らされても気にしない人
左手に広がるオホーツク海は、先ほどまで晴れていたが、いつのまにか霧で靄ってしまっている。それでも、海岸では海水浴を楽しんでいる人が見受けられる。サハリンにとっては、短い短い夏のひと時であり、すぐにまた寒い秋なってしまうのだろうから、多少曇っていてもこれで十分なのだろう。そのうちに、新しく整備されたらしい道路が鉄道の路盤と並走するようになったが、その上を走る車はほとんどなかった。時刻は18時になろうとしているが、緯度も高く、日本との時差が2時間(サマータイムを含む)あるので、陽はまだまだ高いところで輝いている。18時21分にザオゼルノエスタロエという小駅に停まり、その次のヴォストーチヌィは旧い木造貨車を再利用したボロい駅舎であった。

@ヴォストーチヌィ駅
そのうち、上段で寝ていた家族の子ども(小さな男の子で、3歳くらい)が降りてきた。暑くて喉が渇いたらしく、机の上にあるものを見比べていたが、私が持ってきたキャンプ用のコップに入っているお茶を飲もうとしてしまった(当然、日本から持ってきたティーパックのお茶が入っている)。緑茶なら止めるところだが、番茶であるからこちらのチャーイと大差ないだろうし、充分に冷めていたから、微笑ましい出来事としてそのまま適当に放って置いた。自分が何をしているのかわからない子どもはそれで満足したようであり、その様子を見てあの怖そうだった母親も少し笑っていた。ロシア人の家族を見ているとたいていそうなのだが、小さな子供は万国共通でよく笑ったりするが、歳を重ねるごとにイデオロギーに染まらされてしまい、愛想がなくなっていくのかもしれない。

@窃盗犯(?)の脱獄風景
18時57分、定刻より4分早着でプガチョーヴォに到着した。行き違いの列車が出発するとこちらも動き出してしまったが、まだ出発時刻の4分前である。もちろんすぐに止まったが、可能性としては、1.停止位置を動かすことによってセンサー類が反応して信号が変わる、2.「よし、行き違いも行ったからこっちも出発するか」「そうだな…。おいっ、時刻表だとあと4分停車だぞ!」「おっと、止まらないと」、のどちらかであろう。ポロナイスクで運転席を見た限り、運転手は3人いてそのうち2人は暑くて上半身裸になっていたため後者を想像してしまうが、おそらく前者であると思いたい。
出発後は次第に草木が大きくなり、峠というほどではないが、編成が長大なだけに列車はかなりゆっくりとしたスピードになって走って行った。廊下にある簡易椅子に座って外を見ていると、どういうわけか気に入られてしまったようで、小さな男の子が話しかけてくる。しかし残念ながら私のロシア語能力は0歳児程度なので、上手に答えてあげることはできなかった。彼の眼には、私は不思議な大人として映っていることだろう。

@ゆるやかな坂をがんばって登る
先にも書いたが客車は3両のみで、私のいる1号車はその一番後ろである。車両の端の部分のドアは閉められているのかとばかり思っていたが、ノブに手をかけてみると普通に開いた。どうやら喫煙場所として提供されているようであり、おかげで後方が見渡せるようになっている。ノグリキ出発時はすぐ後ろの貨車が有蓋車(箱形の貨車)だったのでここからは何も見えなかったであろうが、いつの間にか無蓋車になっており、後方が広々を見渡せるようになっている。これ幸いと、その様子を写真に収めた。

@後方の風景
緩やかな峠区間が終わり、左手に沿う道路に点々とカニ売りのおばさんが現れ、それが終わるとヴズモーリエである。ここで22分ほど停車するのであるが、降りた乗客たちが一目散に向かうので一緒に移動してみると、駅前にマガズィーン(商店)があった。特に何か買いたいものがあるわけでもないし、1人しかいない店員の奪い合い(?)に勝てる気もしなかったから適当に退散した。駅近くではカニ売りの人たちが何人か出店を開いており、それを眺める人たちもいる。

@カニの露店
駅に戻り、目的のよくわからない台車のみの展示を眺めたりした。行き違いのД2型ディーゼルカーが先に出発していったが、時刻からしてトマリ行の列車であろうか。
長大な貨車部分の先(後方部分)ではディーゼル機関車の煙が上がっているが、おそらく貨車の付け替えをしているのだろう。まさか、峠区間を後方から補助していたわけではあるまい。
ヴズモーリエを出発してからは、座ったままで暗くなるまで外を眺め続けた。サハリンとはいえ、夜の21時半になるとさすがに外はほとんど見えなくなってしまった。ちなみに、他の旅行記サイトでは、サハリンではシーツ代(40Pほど)を車掌が回収に来るという話が多かったが、今回はいずれも徴収に来なかった。どうやら、「どうせ全員から取るのなら、シーツ代を込みにした料金設定にした方が楽だ」ということに、やっと気づいたのかもしれない。

@(この場面とは関係ないですが、明るかった時間帯の途中の風景を)
列車は暗闇の大地を走り続け、ほぼ定刻に近い時刻で各駅に停まり、ユジノサハリンスクには計ったかのように定刻の23時30分に到着した。
もう夜も更けているが、宿泊先は駅に直結している。部屋に入り、薬を飲んだだけですぐ横になってしまった。
■2011.8.8
朝、快調ではないが、歩いたりする分には可能な程度ではあった。ファストフードで朝を済ませ、その足で駅近くにあるバス切符売り場へ行く。ホルムスクへの朝一便のバスは8時40分発で、ガイドブックなどには250Pと書いてあったが最近になって270Pに値上がりしたようである(その旨らしき掲示も貼ってあった)。
バスは韓国製の中古車である。旅行記前半で、サハリン内のほとんどが日本の中古車であると書いたが、実は路線バスに限っては韓国製が多い。それもそのはず、日本は左側通行でサハリンと韓国は右側通行、乗用車は少し不便な程度で済むが、路線バスの場合、日本の中古車をこちらに持ってきても乗降口がセンターライン側になってしまうのである。

@今回乗車したバス(復路も同じだったため、ホルムスクで撮影)
ダエウー製のオンボロバスは、一般道をかなりの高速で快走していった。途中一瞬であるが、廃線となった豊真線の路盤跡や鉄橋などが見える部分があった。そんな部分をこそこそ撮影していると、それこそスパイのように思われてしまうが(しかも旅行記のためとはいえ簡単なメモまで書いている)、あまり目立たぬように撮影をした。
到着したホルムスクは、落ち着いた港町という雰囲気であった。街中をあれこれ歩き回り、朽ち果てている王子製紙工場跡などの写真を撮り続けた。

@製紙工場跡
そうしていると貨物列車が近づいてきたため、吉と出るか凶と出る(怒られる)か不安であったがカメラを構えて撮影をすると、運転手のおじさんは笑顔で汽笛を鳴らしてくれたので、こちらも安心して手を振った。

@貨物列車
余談だが、サハリンでは踏切番用の小屋がたくさんあり、必ず誰かが常駐している。列車本数もそれほど多くなく、ホルムスクのこの区間などは貨物が通る程度だが、このような建物が残っている。利益を追求すればこのような職業はすぐに淘汰されてしまうのだろうが、踏切番が各所にいて、各車両に車掌が常務し、どんな小さな駅にも駅員がいて列車の通過を確認しているあたりから、ロシアの民主化がまだまだ先のような感じもしてしまう。

@踏切番(でもこの小屋はかわいい)
13時発のバスでユジノサハリンスクへ戻り、しばらく市内で夕食の惣菜などの買い物をし、ホテルに荷物を置いてから駅へと向かった。サハリン最後の鐡旅として、ブイコフまで往復してくるためである。
まずは、駅構内で切符を買う。その際に往路のフェリーで一緒だった人と再会し、彼はトマリ方面の往復を終えてこれからノグリキへの往復をするという。その部分は私と同じであるので、ノグリキの様子やティモフスクの宿泊先のことなどを伝えた。

@駅構内の様子(車掌は柱の向こうにいる)
ノボジェレーベンスカヤに行ってきたД2型が、折り返しのブイコフ行となる。その列車の到着を待ち、ホームにいる車掌に見つからないように撮影をし、切符を見せて乗り込んだ。車内はそれなりに混んでおり、各ボックスに1~2人は座っている感じである。
定刻の17時35分に、ユジノサハリンスクを出発した。途中のソコルまではノグリキまで通じている本線を走行するため、順調に快走していく。ソコルの先から分岐してからは、スピードも少しゆっくりになり、沿線風景も人工物の少ない閑散とした風景になっていく。途中駅の名称も、固有名ではなく「15km」のようなものになってくる。

@21km駅で、おじさんが降りていった
旧い工場などの廃墟が現れ、勾配が厳しくなってスピードが落ち、小さな駅をいくつか過ぎ、歩く速度のような超低速になって崩れそうな工場跡に近づくと、終着駅のブイコフである。駅舎らしきものがあり、何より驚いたのが日本のような「高いホーム」が残っていることである。このようなホームがあり、列車から普通に降りられたのはサハリンに来てから初めてである。

@ブイコフの高床ホーム
駅前の通りは舗装もされておらず、寂しい風景である。駅のすぐ近くにある旧い共同住居らしき建物にも、人が住んでいるような気配はない。数十人の乗客が降りたが、彼らはどこかへ歩いて(一部は車に乗って)行ってしまった。社会主義時代ならば、有無をいわせずこの辺境の地に住んで工場で働く必要もあったのだろうが、今の時代、どうしてこのような不便な土地に住み(地場産業はあるように思えない)、そしてわざわざ1日2往復しかない列車で通勤しなければならないのか、その理由は私には推し量りきれない。

@冷戦時代を思わせる勇ましい看板
駅前の殺風景な様子を撮影し、駅に戻って高床のホームを撮影していると、すれ違いざまに関係者らしき男性が軽く私の肩をつついてバツのサインを出していった。撮影するなということであるが、「やめろ」という感じではなく、「そこにいる警察に見られたら面倒なことになるから、やめといた方がいい」という感じであったと思う。
撮影が不可ではすることもなくなり、折り返しの出発を車内で待つ。手持ちで印刷してきた時刻表の出発時刻になっても動かないので不思議に思っていたのだが、どうやら時刻改正があったようである。車内に掲示されていた新しい時刻表を確認し、見つからないようにそれを撮影した。
19時34分にブイコフを出発し、すぐにやってきた車掌から手書きの切符を購う。車窓には、スパイ活動をしても実にならなそうな廃墟などがあるばかりである。

@こんな廃墟を写しても、情報としては有益ではないだろう
ソコルで本線に合流し、ノヴォアレクサンドロフカでノグリキ行の1番列車とすれ違い、ここで車内灯に明かりが付いた。右手には大きな夕日が沈み始め、それが見えなくなってしばらくすると終着のユジノサハリンスクである。
到着時刻は、定刻の21時07分であった。部屋へ戻り、スーパーで事前に買っておいた惣菜での最後の晩餐である。

@酒代込みで500P(約1,500円)の超豪華晩餐(豪華かどうかは作成者の普段の食生活との比較による)
■2011.8.9
最終日は、昼過ぎの飛行機で成田へ飛ぶだけである。午前中は、次にいつ来られるかわからないユジノサハリンスクの市内を適当に歩き、何気ない街の景色を写真に収め、そして空港へと向かった。ロシアの航空会社らしくないエアバスは、その大きな機体にわずか20名ほどの乗客を乗せて飛び立ち、宗谷海峡の方へと向かって行った。

@お疲れさまでした(ユジノサハリンスク猫より)
余談1 サハリンの結婚式
乗用車に派手に飾り付けをし、クラクションを流しながら移動する。そして市内各所の名所に行き、これでもかというポーズで写真を撮る。ユジノサハリンスクだけではなく、ノグリキでもやっていた。

@ガガーリン公園にて
余談2 野良牛?
野良の犬や猫は多いが、時折牛もいる。野良というよりは、繋がずに飼っているということであろう。

@ノグリキ市街地へ向かう道路にて
余談3 ハト好き?
サハリンの人はハトに餌を与えるのが好きなようである。それも「撒く」のではなく「与える」である。手、肩、場合によっては頭にハトを乗せても平気なようである。写真はホルムスクだが、ユジノサハリンスクでも何度か見られた光景である。

@ハト好きな女性たち
余談4 野良犬
サハリンの町々には野良犬がたくさんいる(猫も多少いたが、日本ほど多くないのは気象条件からして厳しいのかもしれない)。犬は概して大きく、たいていは雑種であるが、中には写真のような超大型シェパードの野良などもいる。危険ではないが、周囲に人がいないと少し怖い思いをする。

@君はちょっと大き過ぎ!
余談5 写真撮影
旅行記にあるように駅や鉄道の写真について咎める人がいるが、特に決められている基準もないようである。ただ言えることは、昔ほどの厳戒態勢ではないので、旧ソ連の雰囲気や残り香を感じてみたい場合は、早めの訪問をお勧めする。

@鉄で働く男たち(ソ連ぽい壁画)
余談6 食事事情
今回はレストランやカフェで食事をする機会がなかったため詳細は述べられないが、概して調味料の多様性が不足していると思える。スーパーで日本の調味具(ドレッシングやソースやマヨネーズなど)が、日本の定価の3倍くらいで売られているのにも、そういう事情が影響しているのかもしれない。お菓子やアイスも「ただ甘い」だけであり、繊細さには欠けているところがある。ただし、単純な味付けの肉系や総菜パン(ピロシキなど)は、相応に美味しかったと思う。

@復路のウラジオストク航空機内食(サラダのキャベツはバリバリに固く、味付けは塩コショウのみ(食べることを断念)。ケーキは、素朴な味の生地に恐ろしく甘いピーナツクリームを挟んでいる。黒パンは想像通りの酸味。米はパサついているが、このプレート部分だけは、固いお肉と一緒にそれなりに美味しくいただいた)
【旅行記の前半は、以下をご覧ください】
【以下もご覧ください】
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