修正版再掲・シベリア鉄道9300キロ

鉄旅(海外)
シベリア鉄道

■はじめに
 「シベリア鉄道」――たとい鉄道や旅行に疎い人であっても、今回のこのテーマに関しては殊更な説明は必要ないであろう。モスクワからウラジオストクに至る約9,300キロの鉄路は大陸横断鉄道の中でもその長さで最長を誇り、その区間を走行するロシア号は最長の「国内鉄道路線」として今もその名を誇っている(ちなみに、国際列車ではウラジオストクからキエフに行く列車などの方が走行距離は長い)。
 今回は、ロシア号に乗ってシベリア鉄道を横断することにした。観光要素の強いイルクーツクを通過することには躊躇いも覚えたが、乗るからには通しで乗りたいということと、途中下車しなくても前後合わせて10日間の旅程となる(さすがにそれ以上は休みが取り難い)ため、1本の列車で乗り通すことにした。イルクーツク周辺は、そのうちまた観光で来ればいいだろう。
 逆に通しで乗ることの最大の難点は、清潔に関する問題である。シベリア鉄道には原則的にシャワー等がないため(乗務員用の設備があり、それを幾許かの金銭で使用させてもらったという旅行記はある)、1週間も風呂なしで生活しなければならないのである。仕様がないため、体はウェットタオルで拭き、洗髪はトイレの洗面所で済ますことにした(男ならではの対処法であろう)。

【旅程】
1日目:成田→ウラジオストク(S7航空)[ウラジオストク泊]
2日目:ウラジオストク近郊列車乗車(ウゴリナヤまで)、夜にロシア号乗車 [車中泊①]
3日目:ロシア号(ハバロフスク、ベロゴルスクなど)[車中泊②]
4日目:ロシア号(スコヴォロディノなど)[車中泊③]
5日目:ロシア号(ウラン・ウデ、イルクーツクなど)[車中泊④]
6日目:ロシア号(タイシェト、クラスノヤルスクなど)[車中泊⑤]
7日目:ロシア号(オムスク、エカテリンブルグなど)[車中泊⑥]
8日目:ロシア号(キーロフなど)[モスクワ泊]
9日目:モスクワ近郊列車乗車(セルギエフ・パッサートまで)、モスクワからアエロフロート航空に搭乗 [機内泊]
10日目:午前、成田着

 ウラジオストクへの航空便といえば、これまではウラジオストク航空のみであった。しかし今年の3月末よりシベリア航空(S7航空)が成田-ウラジオストク便(名目上はチャーター便)を週に2便運航し始め、しかも土曜日の便があるため仕事がある身としてはかなり使い勝手が良い。ロシア号の出発日(ウラジオストク発は偶数日)に合わせて、7月の2週目に出発することにした。
 例のごとくロシア入国にはバウチャーとビザが必要であるため、個人手配を主義とする私ではあるが、今回も旅行社を通じて手配をしてもらった。

■2012.7.7 ウラジオストクへ
 S7航空の成田発は15時40分であるため、出発には余裕がある。インターネットで偶然発見した京成バス(キャンペーン価格で東京から成田まで800円)で空港へ向かい、JALのラウンジでいつものカレーを頂きながら時間を潰した(S7航空はワンワールド加盟であるため、斯様に恩恵を受けることができる)。

@鮮やかなグリーン色が特徴

 霧模様の成田空港は混雑しており、ひたすら待たされた挙句に飛び立ったのが16時25分頃であった。新設路線なので色々と心配していたが、機体は真新しいエアバスであり、自動音声ながら日本語のアナウンスもあった。18時前(ウラジオストク時間で20時前)には下界に森林が見え始め、到着はほぼ定刻の20時14分であった。

@ウラジオストク空港(タラップを降りてから撮りたいが、そういうことをしたら厳しく注意されること必至)

 歩けばすぐの距離(50メートルくらい)を移動するためにバスを待たされ、入国審査を終えたのが20時45分頃、ホテルまでの送迎と切符の配達をしてくれる運転手と落ち合い、ボロい日本車で市内へと向かった。
 今回は安い手配にしたので「ドライバーはロシア語しか話せない」というプランにしたが、やってきた人は日本語を勉強中ということで片言の会話はしてくれた。彼女曰く「約40分」という道程であったが、道路工事等による大渋滞があり、ホテルに着いたのは2時間後であった。大変な渋滞であったが、海際では打ち上げ花火も乱発されており(運転手さん曰く、「ええと、…日本語出てこない、…のお祭りデス」)、賑やかな初日となった。
 駅近くまで行きスーパーでビールと惣菜を買い、雨模様で中断しているF1予選を見ながら一献して就寝。

@ロシアンビールとロシア食材で前祝

■2012.7.8 ウラジオストク近郊観光、ロシア号1日目
 ロシア号の出発は夜遅いため、今日は近郊列車(エレクトリーチカ)に乗車して、その後はウラジオストク市内を観光する予定である。
 近郊列車と言っても、走行する区間はシベリア鉄道である。今晩乗る路線に前もって乗るのは無駄だと思われるかもしれないが、ロシア号の出発時刻は22時30分、いくら夜が更けるのが遅いウラジオストクでも22時過ぎには暗くなってしまうため、外の景色が見えないのである。そしてこの区間は、シベリア鉄道で唯一「海が見える区間」なのである。よって、明るいうちに近郊列車に乗っておくことにしたのである。

@エレクトリーチカとは

 乗車するのは、ナホトカ方面の分岐に近いウゴリナヤ駅までである。シベリア鉄道の極東地域で最初に開通したのは、1893年のウラジオストク-ウゴリナヤ間であるから、そういう意味でもこの区間に乗車するのには意味があると言えるであろう。
 ホテルで朝食を済ませた後、ウラジオストク駅へ行って切符を買う。切符売り場近くの壁には時刻表と料金表があるのでわかりやすく、口頭で「ウゴリナヤ」と言うだけで買うことができた。
 出発時刻の10分ほど前に、旧い緑色の電車が入線してきた。旧ソ連時代から使用されている、ラトビア製の旧い車両である。車内の座席は板張りで、3人席が2列並んでいる。

@当然、おしりは痛くなる設計

 定刻の9時25分、旧い電車はウラジオストクを出発した。5分もすると左手に海が見え始め、最初の駅の到着が9時32分。意外ではあるが、始発であるウラジオストクよりも駅に停まるごとに次第に乗客は増えていった。
 その後は左手に海が広がる割合が増え、季節柄多くの海水客が水着姿で浜辺を屯しているのが見える。ウゴリナヤ到着も、定刻の10時18分であった(ちなみにこれらの時刻は、出発前に「ウラジオストク、ウゴリナヤ、エレクトリーチカ」をロシア語で検索して適当に見つけたサイトhttp://poezdato.net/と比較したものである)。

@ウゴリナヤ駅と海

 帰りの電車は比較的本数があるため、しばらくは駅周辺を散策してみることにした。海と反対側を数分歩くと廃線跡(使途不明)があり、その先の大きな通りを左に曲がると小さな市場があった。それらを見学し、駅近くで野良猫を追いかけて撮影してから、再び駅へと戻る。
 駅舎が大規模な改修(ほぼ新装)中であるため、仮設のようなところで切符を買った。その後、仮のホームでうろうろしていると、警察2人組が何やら(おそらく写真のこと)をガミガミ言ってきた。昔はともかく現在では違法ではないはずだが、こちらもロシア語がわからないので適当にやり過ごした(田舎での写真撮影は、やはり慎重さが必要なのであろう。結論からすると、今回の旅行で撮影を咎められたのはここだけであった)。

@仮ホーム(左上が仮駅舎)

 列車は定刻の11時23分に、ウスリースク方面からやってきた。いそいそとそれに乗り込み、再び海岸沿いの景色を眺めながらウラジオストクへと戻る。車内には売り子(個人経営であるため、リュックや肩などに品物を担いでくる)や、アコーディオン奏者(1曲演奏して小銭を集める)まで現れ、なかなか賑やかであった。

@ロシアの夏は短い

 その後は、ウラジオストク市内観光である。海岸沿いを歩き観光スポットをいくつか押さえてからは、お待ちかねのケーブルカーである。
 ケーブルカーはロシアで非常に珍しいもの(こことソチにしかないという)であり、最近まで改修中であったが現在は乗車可能という情報を得ている。行ってみると家族連れなどが写真を撮っており、しばらくするとおばさんの車掌が来て車両の中で料金を徴収し始めた(最近、6ルーブルから8ルーブルに値上がりしたようで、スタンプで料金が修正されていた)。

@対向の車両とすれ違い(乗車時間は3分未満?)

 距離はこの上なく短く、あっという間に終着駅に着いた。しかも鷹の巣展望台まではそこからけっこう歩かなければならず、日常の足としても観光需要としても、いずれも微妙な立ち位置である。
 展望台から市内の景色を眺めてからは、帰路は徒歩で降りて行く。通りには路面電車の線路があるが、残念ながらこれは数年前に廃止されてしまっている。
 市内中央部の大通りを30~40分歩いて海岸まで行ってみると、今日もお祭りが続いているようで、ステージ上では賑やかな音楽が奏でられており、売店のアイスクリームには長蛇の列が出来ている。陽気に騒ぐロシア人や相変わらず大騒ぎの中国人団体観光客以外に、さすがはロシアと思ったのが、北朝鮮の高官らしきツアー客数人が、金日成と金正日の顔入りバッチ付きで歩ているのを発見したことであった。

@お祭り気分のウラジオ市民

 売店で買ったアイスを齧りつつ、吃驚するほど際どい水着で砂浜に寝そべるロシア女性(6割が太鼓腹おばさんで、2割が普通、そして残り2割はモデル並みの超美人)を見ながら歩く。広場の近くで行列があったので覗いてみると、どうやらロシア海軍による炊き出しのようである。無料には弱いのでそれに並ぶこと30分、もらえたのは鮭入り香草スープであり、なかなか美味であった。飛び入りで美味しいところだけ頂くのは気が引けるが、日露戦争終結から100年と少し、これくらいはもう許してもらえる(?)だろう。

@美味でした(でも北方領土は返してください)

 駅へ戻ってみると、ちょうど列車が入線してきたところであった。外見は近郊列車のようであるが、車内の座席はリクライニングの豪華なものになっている。行先表示を見てみるとナホトカ行であったが、その右側に「ボストーク」と表示されてあるではないか。ボストーク号と言えば、紀行作家の宮脇俊三氏がシベリア鉄道に乗車する際に、ナホトカからハバロフスクまで乗車した列車で、現在は北京からモスクワへ行く列車の名称にもなっているはずである。
 そう思って調べてみたら、これはボストークではなく、“ウラジオストク”のロシア語を短縮版にしたものであった。

@ボストーク号、ではありません

 その後は再び市内を歩き回り、再度お祭りの会場に行ったりして、それからスーパーで今晩の食材や水などを購入し、個人商店で1リットルのワインを3本(1週間分)を手に入れ、ホテルで荷物を返してもらってから駅へと向かった。

@ウラジオストク駅(明るい時間帯に撮影)

 待合室の豪華な天井を見たりして待つこと30分、22時少し前にアナウンスがあって客が動き始めたが、窓から外を見てもなかなか列車が入線してこない(そもそも私はアナウンスの意味を理解できていない)。22時10分頃に列車が見えたので、売店で今晩用のビールを買い、ホームへ降りて指定された4号車に行ってみると、車掌はホームの反対側を指している。どうやらロシア号はもうすでに入線していたようで、22時少し前にあったアナウンスがそれのようであった。

@ちなみに「豪華な天井」とはこういうもの

 車内に入ると、同室には大人しそうなロシア女性が1人いるだけであった。炎天下に放置されていたせいか、車内はかなり蒸し暑い(走り出して冷房が入ると解消されたが)。スーパーで買ったサラミやチーズ、魚のオイル漬けやカツレツなどで一献していると、定刻の22時30分、車両はゆっくりと動き出した。

@暗くなっていたため写真はなし(朝に撮影した、シベリア鉄道の起点を示すキロポスト)

 しばらくはウラジオストクの灯火が見えるが、次第にそれが少なくなっていく。なんとなく海の面影が見えなくもないが、ほとんど景色は掴めない。午前中にこの区間を乗っておいてよかったと思う。
 車両はかなり新しく、人のいない上段であるが転落防止用の柵があり(当たり前のことのようであるが、ロシアの車両にはこれがないのが普通であった)、また1つだけであるが室内に電源もある。トイレも垂れ流しではなくタンク式であるため、停車中も利用できるのがありがたい(垂れ流し式の場合は、停車駅前後は車掌が鍵を閉めてしまうため使用できなくなるのである)。

@最新の車両だが、外見はボロく見えるのが不思議(この写真も朝のうちに撮影)

 23時20分過ぎ頃、食べ終えてから、酔いながらベッドメーキングをし、着替えをし終えたところでちょうど消灯になった。

■2012.7.9 ロシア号2日目
 目が覚めてみると6時30分、辺りはこういった地域の気候の朝にありがちの霧模様である。列車は中国領を迂回するためまだ北北東に向かって走っており、右手には朝日が昇り始めている。そして7時18分、停車駅であるビキンに到着した。定刻より12分の遅れである(とこの時分では思っていたが、実は時刻が改定されており、実際は7時20分着予定で2分の早着であった)。

@縁起よく日の出を拝む

 ビキン出発後は、ぼんやりと外を眺め続けた。頻繁に貨物列車とすれ違うが、1両当たりの車両が長いものでも40両以上、短いタンク車両などでは60両程度繋がっているものが普通であった。シベリア鉄道が、いかに貨物中心であるかを物語っていると言えよう。
 9時頃になると、それまで快走していた車両のスピードが鈍くなっていった。所々で保線作業も行われており、走行音も「ガタンゴトン」というものになっている(昔の短いレールを使用している区間なのであろう)。ハバロフスクには、定刻より25分遅れ(実際は19分遅れ)の11時20分であった。ホームは広いが、物売りはアイスの売店が1つあるだけで、食糧を手に入れられそうな露店はまったくなかった。

@ハバロフスク駅舎

 11時40分にハバロフスクを出発。すぐにあの有名なアムール川を渡るが、事前に調べた限りでは、モスクワ行の列車は原則として橋ではなく地下トンネルを通ることになっているらしい。出発後すぐにトンネルに入ったので「やっぱり」と思っていたが、そのトンネルはすぐに終わり、アムール駅を過ぎるとなんと橋を渡り始めたではないか。偶然なのかシステムが改定されたのかはわからないが、シベリア鉄道における数少ない見どころポイントを押さえることができたのは幸いである。

@1枚の写真では収まり切らず

 鉄橋を渡り終えた後は、これまで通りに白樺林やタイガなどを見続けていたが、ふと廊下に時刻表が貼っているのに気付いた。それをよくよく見てみると、ウラジオストク出発とモスクワ(ヤロスラヴリ駅)到着は変わっていないが、途中駅の発着が、分単位であるが改正されていたのである。徐にその写真を撮り、室内で手持ちの時刻表に書き写した。

@時刻表(これを参考にして、停車時に買い出しなどをする)

 ビロビジャン付近では、またしても列車は速度を落とした。路盤状態もあまりよくなく揺れを感じていたが、ふと路盤脇を見ると変形した貨車が数両まとめて置いてあるではないか(明らかに「事後処理後の後始末」)。シベリア鉄道に関する事故の話はあまり聞かないが、こちらの列車がそうならないことを祈るばかりである。ビロビジャン到着は、定刻より19分遅れの13時53分であった(ここ以降は正しい時刻表との比較による)。
 その後、列車は快走し始めた。キロポストを目で追ってみると、「30秒で1キロ」であり、つまりちょうど時速120キロで走っていることがわかる。

@シベリア鉄道は貨物のための鉄道

 2日連続していつもよりは寝不足だったため、1時間ほどうたた寝をする。次の到着はオブルチェで16時25分(定刻より13分遅れ)に着いたが、なんとこの駅にも物売りが皆無であった(「地球の歩き方」には、この駅にて露店が出ている写真が掲載されている)。季節柄ものが腐りやすいためやっていないのか、それとも、そもそも違法な形態の商売であったから一斉撤去されてしまったのか、いずれにしても謎である。

@売り子(シベリア鉄道名物)が、ゼロ

 すると、カバンを抱えてなにやらぶつぶつ言ってホームを歩いてくるおばさんがいて、乗客の人が声をかけるとアイス売りであった。なるほど、仮に露店が違法として撤去されたとしても、この形態なら問題ないはずである。その人から1つのアイスを買いそれを齧っていると、今度は手押しカバンの中に食事系のものを入れたおばさんがやってきたので、ピロシキと肉団子みたいなのをそれぞれ1つずつ買ってみた。季節からして腐敗が気になるところであるが、食べる時ににおいが気になれば諦めればいいだけである。

@このおばさんから購入(結局、美味しくいただきました。疑ってごめんなさい)

 再び列車は草原の中を走り続ける。カザーチィという小さな駅を過ぎたが、ここで時差が生じて時計を1時間戻すことになる。沿線に何か目印でもあるかと思って目を凝らしてみたが、時差などは大したことではないようで何も見付けられなかった。
 18時18分、遅れを10分にまで取り戻してブレヤに到着した。駅構内(進行方向右手)には、SLが展示されている。2分後に出発したが、左手奥の方には大量のSLらしきものが、まるで墓場のように係留されているのが垣間見えた(建物と木々が邪魔をしており、写真はうまく撮れなかった)。

@ブレヤ駅のSL

 沿線には、鉄道用の工場なども時々存在する。日本と違うのは、こちらでは枕木(コンクリート製)の上にレールを設置した状態までユニット単位で製造し、それをそのまま輸送して行くということであろうか(おそらく日本では、現場で枕木を設置し、その上にレールを敷くはずである)。

@こういう状態まで製造する(横からではわかりにくいが)

 しばし快走し続け遅れを挽回し、ベロゴルスクには定刻の20時31分に到着した。この駅では30分の停車予定であり、定刻になってくれたおかげでたっぷりと撮影や買い出しができることになる。
 露店に関してであるが、やはりこの駅でも全廃されていた。物を売っているのはオブルチェと同様に、カバンに食べ物を入れて「歩き売り」するおばさんだけである。今晩のツマミの手配が心配になってきた。

@駅舎前ではレーニン(たぶん)がお出迎え

 時間もたっぷりあるので、まずは先頭の機関車や駅舎、駅周辺の撮影をする(面倒なことにならないように、警察には背を向けながらの撮影。しかしこれは杞憂であり、シベリア鉄道内で撮影を咎める人は最後までいなかった。もちろん、警察も同様である)。
 駅前の建物に人が入っていくので付いて行ってみると、なんとスーパーであった。これ幸いと、インスタント食品やお菓子、ビールや惣菜を買うことにする。しかし惣菜であるが、1人しかいない店員を私の語学力で奪い合うのは不可能である。籠に入れてレジに持って行ける状態で売っている唯一の惣菜は、鳥の丸焼き(フィリピン旅行で買った丸焼きは小ぶりだったが、今回は本格的な大きさの丸焼きである)だけであるが、選択肢は無いのでそれを買うことにした。値段にして約330ルーブル、たったの千円程度であるから、余れば残してしまえばいいだろう。

@大きな丸焼き(長さ約25センチ)

 同駅出発後は、丸焼きを分解しつつ酒を呑み、日の暮れに合わせるように22時過ぎに就寝した。ちなみに、かなり必死に食べたが鳥さんは5分の2ほど余ってしまったので、そのまま捨てるのは忍びないのでクーラーの送風口付近に置いておくことにした。

■2012.7.10 ロシア号3日目
 6時30分頃に起床、天気はくもりである。2晩も風呂なしで過ごしたため、トイレへ行き洗髪と体拭きを済ませてすっきりとした。

@トイレ(車両の隅に同じものが2つ。後日、お湯が出ることを発見)

 持参の資料を参照して、現在位置を確認する。時刻からするとスコヴォロディノを過ぎたあたりであろうか。3日目ともなるとかなり乗車してきた気がするが、地図を見てみると、モンゴルどころかまだ中国の旧満州国部分の迂回すら終わっていない位置で、全体地図をからするとまだまだ右側(東側)であり、シベリア鉄道の偉大さを実感する。
 8時過ぎ、雨模様となり雨粒が窓を伝い始める。一般的な旅行ならば恨めしい雨も、鉄道旅行は乗りっぱなしなので、雨もまた趣のある一場面である。

@雨でも鉄ネタを狙う

 9時17分、定刻より8分遅れでエロフェイ・パーヴロヴィチに到着した。駅付近には、これまでと同様にSLが展示されている。雨は強く、また列車はホームのないところに停車している。降りてみたが、人々は接近してくる対向列車に対して避けることもせず、辺りには野良犬がいたりして長閑な雰囲気であった。ここでは21分ほど停車する予定であり、停車時間を短くしたりして遅れを挽回するだろうとの予想を裏切り、定刻より14分遅れの9時44分に出発した。

@食堂車のおばさん、タバコ吸う前に避けましょう(この大柄なおばさんが、このあとに出てくる「ピロシキ売り」「ビール売り」の従業員です)

 地理的に若干山間を走行しているため、路盤は左右にカーブが連続している。走行音もガタンゴトンとレールの継ぎ目を強調し、枕木も旧い木のままである。試しにキロポストで計ってみると、65秒で1キロであった。久々に紙の上で割り算や掛け算をしてみると、時速55.38キロという答えに辿り着いた(それだけ暇があるという証しでもある)。その後はさらにスロー運転(ほぼ徐行運転)となっていった。

@雨模様の写真では映えないので、晴れていた時間帯のものを

 11時過ぎ頃、食堂車の従業員がお盆片手にピロシキなどを売りに来た。食堂車の厨房で揚げているものであろうから、物売りのおばさんのよりは期待できそうである。今は空腹ではないが、明日以降に挑戦してみようと考えた。
 11時38分、アマザルに到着した(定刻より17分遅れ)。雨はもうすでに止んでいる。これまでゆっくりと編成を確認できていなかったため(特に自分のいる車両より後ろ側)、そちら側に行ってみると、最後尾はソビエツカヤガバニからのもので(совгаваньと書いてあるので、最初は何のことかわからなかった)、2両目と3両目に至っては、なんと平壌(ピョンヤン)からの車両ではないか。ここぞとばかりに、色々と写真に収めた。

@何故か感慨深い

 この駅も例外ではなく、露店は皆無であった。物売りは駅の敷地外(柵の外)に何店舗かあり、これはやはり露店が全面的に禁止されたと見てよいであろう。ホーム上で営業しているのは、例のごとく「歩き売り」の人だけである。
 そのホーム上であるが、なぜか野良ヤギ(?)が2匹いて乗客の注目の的になっていた。車掌も面白がって、パンを与えたりしている。人々もそれを写真に撮ったりして、和やかな空間となっていた。

@なぜヤギが?

*現状の編成:[機関車][荷物車][荷物車][荷物車][荷物車][11号車][8号車][7号車][6号車][食堂車][5号車][4号車][3号車][2号車][1号車][26号車][25号車][00号車](11号車は3等3段式寝台で、8号車から1号車まではロシア号カラーの車両(2段式寝台)。おそらくどれかが1等(2人部屋)として使用されているはずである)

 11時58分、遅れをそのままにアマザルを出発した。じきに雲が切れ始め、晴れ間も覗くようになっていった。ふと気づくと、キロポストが7,000キロを切って6,900キロ台の後半になっている。結構走ってきたと思う反面、まだ約4分の1しか走っていないと思うと、先の長さを実感してしまう。

@モゴチャに近づく

 13時17分、遅れを2分だけに挽回してモゴチャに到着した。快晴になっていたので、おそらく30度近い炎天下の中を先頭車両まで歩いてみる。駅周辺は、小ぢんまりとした家々が立ち並ぶ小奇麗な集落である。

@ホーム付近の線路が上下にが歪んでいる?

 13時34分、定刻より4分遅れでモゴチャを出発した。その後は、今日も小一時間ほど昼寝をする。起きてからは、またぼんやりと景色を眺める。峠と言うほとではないが、川沿いに左右に少しずつ曲がりながら列車は進んでいった。空模様は再び怪しくなり、16時頃からはまた雨粒が落ち始めた。
 激しい雨は短時間で止み、再び曇り空に戻る。季節柄「花の見ごろ」であり、沿線の草原には黄色や紫や白の花々が所々で咲き乱れているが、いかんせん花自体が小さいものであり、走行中の車内から撮影することは不可能である。

@目で見ると綺麗なのですが(写真には映らず)

 放置されている大量のSL(スクラップ用?)が見え、毎度のことながらのきちんと展示されているSLが右手に見え、そしてしばらくするとチェルヌィシェフスク・ザバイカリスキーで、遅れは1分だけとなり18時50分に到着した。
 ここでは30分ほど停車するため、先頭を撮影しようと前に進むとすでに機関車は切り離されてしまっていた。近場に高架橋があったので登ってみると、操車場には数えきれないほどの貨車があり、また山間の綺麗な景色も遠方には広がっていた。

@中央に停まっているのがロシア号

 露店はやはり皆無で、この駅の場合は柵が遠くにあるため、柵の向こうに小さな店舗を構え、駅のホームで呼び込みのおばさんが声をかける、という形態になっていた。
 先頭に機関車が付けられたので行ってみたが、これまでと似たり寄ったりの赤色の電気機関車である。どういう違いがあるのかは、帰国後に調べなければわからない(そこまで調べようとするほどのマニアでもない)。

@最近はこういう作業を撮影しても咎められないようである

 売店があったので今晩のツマミ用ソーセージ(30ルーブル)を2本買い(ロシア語の1から100までは覚えてきたが、相手の言う数字の単位がだんだん聞き取れるようになってきた)、野良子犬の写真を撮り、瀟洒な駅舎を眺めたりして時間を潰した。

@基本的に、駅は小奇麗なものが多い

 この駅(書くのに疲れるほど長い)を定刻の19時19分に出発し、再び草原の中を走り続ける。スピードを落とした状態で貨物列車とすれ違ったので両数を数えてみると(通常の速度では正確に数えられない)、67両であった。日本でも、私が子どもの時分は40両クラスの貨物列車があったものだが、今はもう昔、である。
 食堂車へ行き、大きな缶のビールを80ルーブルで買う。店で買う(約50ルーブル)のと大差ないし、何より冷えているのがロシアらしくなくて良い(中国やロシアの列車では、ビールが冷えていないのが数年前までの常識であった)。

@白樺林が増えてきた

 自室へ戻り、先ほど買ったソーセージと昨晩の鶏肉で夕飯を始めた。鶏肉であるが、匂いに異変はないし味にも変な酸味はなかったので、自身の舌を信用して食べることにした。
 そしてもう一つのツマミが、車窓に広がるシルカ川の流れである。シベリア鉄道の見どころの河川というと、どうしてもアムール川などが挙げられるが、渡り切ってしまえばあという間である。しかしこのシルカ側は、かなりの長時間にわたって線路に沿い、その滔々とした流れを見せてくれるのである。出発前に数冊(およびインターネットで数か所)確認したシベリア鉄道旅行記でこのシルカ川を推しているものはなかったが、私は個人的にぜひお勧めしたいと思う。

@写真ではなかなか伝わりませんが

 ワインを片手にぼんやり眺めていると、左手に旧い建物が見えてくる。これは現在では廃墟となっている教会の建物であり、事前に書籍でその存在を確認していたものであるが、まさかこれほど周囲に何もないところに建っているとは思っていなかった。急いで写真に収めたが、なんとかフレーム内に入れることができた。

@旧い教会

 ほどよく酔ってきたところで、まだ陽の高いうち(と言っても22時前だが)に就寝。

■2012.7.11 ロシア号4日目
 真夜中、人の気配を感じたので目が覚めたが、どうやら反対側のベッドにいた大人しい女性がいなくなり、その代わりにおじさんが乗ってきたようである。薄明りの中で時計を見ると午前3時頃、どうやらチタⅡのようである。
 再び眠りに落ち、起きたのは6時30分頃、今日も空模様は曇りである。
 これまで何回も見てきたパターンで、まずスピードが落ち、そして展示してあるSLが見えると、停車駅である。停まったのはヒロクで、定刻から22分遅れの7時21分であった。

@何もないけど降りてみる(朝の冷たい空気を吸うため)

 辺りの風景には、時折貧しい農村が現れてくる。家畜の類は少なく、稀に牛か馬がいる程度である。
 乗りっぱなしなので雨は一向に構わないが、今日は午後にバイカル湖畔を3時間ほど走行することになっている。せめてその時間帯だけは、晴れていてほしいものである。…という文章を室内で打っていると、雲の隙間から日が差し始めた。あとは天に祈るばかりである。

@廃墟

 同室になったおじさんが肩をたたくので部屋に入ると、食事をどうかと誘われたので、最初なので頂くことにした。ロシアにありがちな世話好きタイプで、肉、卵、乾燥パン、キュウリ半分をもらい、それぞれ少量であったがかなりお腹いっぱいになった。
 彼の名前はサーシャで、ウクライナへ行く(帰る?)ためにこのロシア号でモスクワまで行くという(さらっと書くと簡単なようだが、簡易辞書を片手にここまで辿り着くにはかなりの時間が必要であった)。
 私の旅行の値段を聞かれたので、約8万ルーブルと答えた。月収も聞かれたので(額面か手取りか、またボーナスを加味するかでかなり違うが)、適当に「10万ルーブル(約30万円)」と答えると、それはすごく高いのかどうかも聞かれたので、「私と同年代のサラリーマン平均よりはかなり低いです」と言えられる語学力はないため、辞書の「ふつう」というところを指差した。
 サーシャは鉄道関係に勤めているということで、月収は2万5,000ルーブル(約7万5,000円)。親指と人差し指の先を少しだけ開ける例の仕草で「これっぽちしかない」という表情をしていた。

@頂いた食材(肉と卵はすでに食べかけです)

 御裾分けに私のコーヒーとスープのインスタントをあげようとしたが、受け取れないという。さらにお互いに辞書で格闘した結果、どうやら薬を飲んでいるためお茶の類(カフェインがダメなのか?)が飲めないということらしかったので、辞書の「家族」を指してカバンを指差したら(「家族に持って帰って」という意味)、納得して受け取ってくれた。
 ふと廊下を見ると、なぜだか物売り(食べ物から衣類まで)が各部屋を回ってきている。車掌も文句を言わないところを見ると、公認の職業なのであろうか。オームリ(魚の燻製)売りまで来たが、これに関してはこの先停車するスリュジャンカで有名なやつを手に入れる予定である。
 ウラン・ウデに近づくと、大量のSLがスクラップ待ち(?)をしているのを見つけた。到着は10時54分、なんと定刻より10分の早着である。

@レストアはされないで廃車になる予感(7~8両はあったであろうか)

 ウラン・ウデでは、まずは見どころである熊のモニュメント(想像より小さくで吃驚)と蒸気機関車(モスクワ寄りの最先頭まで行かなければならない)を写真に収めた。時間はたっぷりあるため、駅の外まで出てふらふらと歩き、構内の売店で夜用のサラミを買い、公認の露店でアイスを買いそれを齧ってホームをぶらついた。

@熊さん(もっと大きいのを期待していたのに。迫力もない)

 定刻の11時29にウラン・ウデを出発後、快走する車内で昼寝をし、バイカル湖のお出ましに備える。目が覚めてからは再び外をぼんやりと眺める。12時57分には、下りのロシア号とすれ違った。ロシア号が何編成あるのかは知らないが、1編成で月に2往復が限界であることを考えると、8編成程度あるのかもしれない。そうなると、近い将来またロシア号に乗ったからといって、同じ乗務員に当たる可能性はかなり低いと言えるだろう。
 13時20分過ぎ、ついにバイカル湖がその巨大な姿を見せ始めた。あいにく快晴ではないが、雨も上がってなんとか晴れになりつつある。

@このスケールは「日本海」と言っても過言ではない

 あまり外を見ない乗客たちも、ここぞとばかりに廊下に出て外を眺めている。しかし、実はこの景色はここから約3時間続くわけであって、次第にその数は減っていってしまった。
 ちなみに私がいる4号車であるが、客室1:2人いる車掌が交代で使用、客室2:中肉中背の男女、客室3:小学生くらいの娘がいる夫婦、客室4:細身の奥さんと細身の娘しか印象にない(夫もいたはず)、客室5:夫婦と子供3人(上の子はほぼ大人で、一番下はまだ幼児)、客室6:私とサーシャ、客室7:中年のロシア人の男女(他人同士らしい)、客室8と9:賑やかな日本人団体旅行者、である。

@そんな人たちのために廊下の敷物を交換してくれている車掌

 バイカル湖への伴走もほぼ終盤に近づき、私が旅行前から狙っていたスリュジャンカでのオームリの入手である。
 ほぼ定刻(急いでいたので未確認)に到着した後にデッキに行ってみると、いるわいるわ、わずか2分の停車時間でなんとかして売ろうと必死になっているおばさんが4人も。値段を確認している暇などなかったので、オームリが入っている籠を手にしているおばさん(他の魚の燻製や干物を売っている人もいる)に対して100ルーブル札を渡すと、新聞紙に2匹包んで渡してくれた。これで、なんとか入手成功である。

@オームリ(この時点ではまだ温かく、1匹150円と考えればかなり安い買い物。夕食時に頂きかなり美味しかったが、次回(いつ?)買うことがあれば、出来立ての状態で食べてしまおうと思う)

 スリュジャンカ出発後は、イルクーツクに向かって峠道を上ることとなる。車両は左右に大きく揺れるので撮影ポイントになるのだが、いかんせんこのロシア号の車両は最新鋭であるため、ほとんどの窓が開かないのである(開くところもあるが、3~4センチしか隙間がないため、手を出して撮影をすることができない)。
 後方にある1号車まで行ってみたがやはり難しいため、諦めてしまった。

@どうしてもガラスに光が反射してしまう(この出来でも最良の一枚)

 一通りの撮影を終えて部屋に戻ると、今度は車掌がノートを持ってきて何やらお願いをしてくる。サーシャも加わり鳩首協議をして辞書を片手に悪戦苦闘した結果、どうやら乗車アンケートみたいなもので、「問題がなければ『よかった』みたいなことを書く」というものであった。ロシア語ではなく日本語の方がいいということだったので、ロシア語だらけの中に、明らかに目立っているカタカナを書いておいた。

@最初はかなり戸惑った

 しばらくすると、大きなビルや高架道路など、久々に目にする大都会が近づいてきて、大きな河川沿いにあるイルクーツクに到着した。18時08分、4分の早着である。ここで、私の号車にいた賑やかな日本人団体さんとはお別れとなる。ホームの反対側には、チタ発モスクワ行の列車も停まっており、ホーム上は大賑わいであった。
 イルクーツクでは元から35分も停車時間があったため、ホームを先頭まで歩いてみた後は、駅舎の外に出てしばらく歩いてみた。話に聞いていた通り、まるで中世のヨーロッパのような瀟洒な町であり、特に駅舎はその存在感や意匠が際立って目立っているものであった。

@やっぱり、いつか観光してみたい

 ホームへ戻ると、チタ発の列車は先に出発していた。そのホームにスリュジャンカ行のエレクトリーチカが入線してきて、すぐに出発するのを見送る。それでもまだ時間があるため、ホームの端まで行って大きな河川を眺めたりして時間を潰した。
 ホーム上には電光掲示板があり、なぜかロシア号の出発は13時51分(モスクワ時間)となっている。現在の時刻表も私が持ってきた古い時刻表も47分発だが、列車は18時50分という微妙な時間に出発していった。

@左手に大きく河川が広がる(写真ではわかりにくいですが)

 私の車両にいた賑やかな日本人団体旅行客がイルクーツクで下車した際に、余った食材(ラーメンなど)をもらったのだが、私一人では持て余す量である。そこで、食べ物に制限のあるサーシャにダメ元で何か欲しいか訊いてみたら、「娘が食べるもの」という。聞くと、ほどなくして停車するアンガルスクで娘が待っているということであった。
 余った食材群から、せんべいと和菓子を選別し、そこに私が持ってきたコーヒー飴を足して、即席のお土産セットが出来上がった。
 これまでサーシャのことを「おじさん」と書いてきたが、まだ彼は43歳、そして娘は19歳ということであった。奥さんはアゼルバイジャン人(住んでいるわけではなく、人種として)であるという。詳しい事情まで尋ねられる語学力はないが、チタからウクライナへ行く途中に、アゼルバイジャン人の妻との娘をアンガルスクで会うなんていうのは、日本のサラリーマンの単身赴任どころの規模ではないだろう。しかも、こういう駅に限って停車時間が2分しかないのである。

@サーシャ、娘と久々に会う

 アンガルスクに停車するなり、車両の停車位置がわからず少し遠くにいた娘をサーシャが大声で呼ぶ。その後二人は抱擁し、短い時間で最大限の会話をするため、何やら大声で喚きあうように真剣に話し合い、そして最後には少し笑顔になって分かれていった。何やら、映画のシーンでも見ているようで、車掌もそれをしみじみと眺めていた(彼女は、列車が動き出すまでドアを開けておいてくれた)。
 部屋に戻ってきたサーシャは、娘にもらった雑誌を手にして「スードク!」と言った(よりによってスードク渡されたよ、みたいな表情をして)。おそらく、お金のかからない方法で長時間の車内を過ごせるよう、娘なりに考えた結果なのだろう(そういうサーシャも、お土産は日本人の即興によるものだぞ)。
 あとは、オームリをつまみに酒を呑んで寝るだけである。試しにサーシャに聞いてみたが、やはり食べられない模様。生野菜と肉と卵しか食べていないようなので、辞書のその部分を指すと彼は「そうだ」と頷いた(食品アレルギーであろう)。私はすべてを平らげ、22時少し前に横になった。

@これといった写真がないので、締めに食べたロシアラーメンを

■2012.7.12 ロシア号5日目
 朝、今日もやはり6時30分頃に目が覚めた。寝ている間に雨音に少しだけ気づいていたが、雨はほぼ止んで曇りになっている。バム鉄道(第二シベリア鉄道)の分岐駅であるタイシェトは、もう過ぎてしまっている。
 トイレへ行き、身支度を整える。どうでもいいことだが、ズボンの股の部分が破れかかっており、帰国時の飛行機で短パンというわけにもいかないだろうから、これからロシア号車内では寝巻用の短パンでずっと過ごすことにする(それまで、長ズボンは温存である)。
 さてそろそろ次の停車駅、と思って資料に目を通すと、タイシェトを過ぎた辺りで時計を1時間戻さねばならないようである。つまり再び5時台に戻ることとなり、仕方ないのでまた横になった。
 6時少し前にレショトゥィに少しだけ停車し、その後に定刻の7時05分にイランスカヤに到着した。周囲に特に何もない小さな駅だが、20分も停車するので、駅近くに展示されているSLや駅前にある何やらよくわからない記念碑、野良犬などを撮影して朝の散歩代わりとする。

@こういう展示がいたる駅にある

 発車5分前に室内へ戻ると、7時23分頃に、昨夕にイルクーツクで見たチタ発モスクワ行の列車が入線してきた(途中駅でロシア号が追い抜いたようである)。あちらは3等寝台が中心の編成で、3等寝台の通路側中段の場合、背中やおしりが窓から丸見えであることがわかった。

@こんな感じで(もっとおしり丸出しの写真もあったが、自粛)

 定刻の7時25分にイランスカヤを出発、しばらくパソコンで旅行記の作成をする。サーシャが携帯画面を見せてくれ、どうやら娘からの返信ようであり、彼は辞書の「飴」「おいしい」という部分を指差した。喜んでもらえて何よりである。
 沿線には、様々な花が咲き乱れている。昨日までは「咲いている」だったが、今日はまさに「乱れまくって」いる。小さい花々なので写真には上手く収められないが、白色、紫色、時折黄色など、まるで絨毯のように広がっているところもある。

@目で見ると素晴らしい景色

 まだ昼前だが、せっかく食堂車が連結されているので行ってみることにした。午前11時前という中途半端な時間であるため、先客は1人だけである(そもそも昼時でも空いているが)。メニューには英語もあり、ロシア語が話せなくても注文は可能である。あまりお腹も減っていなかったため、当たり外れのないサーモンマリネ(230ルーブル)とパン(9ルーブル)とチャイ(30ルーブル)を注文した。料理が少量の割にはなかなかの「レストラン価格」であるが、雰囲気を試しに楽しむ分には十分であろう。

@日本では絶滅危惧種となってしまった食堂車

 大きなエニセイ川を渡り、久々の都会が近づいてくるとクラスノヤルスクである(操車場にはエニセイ号の車両もあった)。到着は8分早着の11時30分、おかげで30分の停車時間となる。
 これまでと似たようなパターンで、まずは駅付近に展示されているSLの写真を撮り、階段を登って駅全体の風景を収め、そして駅舎の外へ出て辺りの様子を写真に収める。ここの駅舎は、これまでの5日間で最大規模ではないかと思われるくらい大きなものであった。駅のすぐ横にミニスーパーがあったので、そこで夕食用の鶏肉と水を買って列車へと戻った。

@巨大な駅舎

 出発5分前に部屋に戻ったのだが、計ったかのようにチタ発の列車が再び入線してきた。あちらは、ほぼこちらを追走するように走行しているようである。こちらと違ってエアコンなしの車両なので、室内はいかにも暑そうな様子であった。
 出発は定刻より1分早発の7時59分であったが、しかし駅の時計は8時00分を指していたから、問題ないとしよう。
 今回の旅の定番となった昼寝を1時間ほどして、起きてみるとすばらしい天気になっていた。午後も期待できそうである。

@晴れ!

 沿線の「花畑状態」は続いており、晴れたためいっそうそれが映えている。そういう風景を廊下で立って眺めていると、商品を手提げ籠に入れて歩いている食堂車の大柄な女性が「ピーヴァ(ビール)?」と聞いてくる。というのも、昨晩私は食堂車まで行かずこの女性からビールを買っており、そのことを覚えているのである(彼女は、日本人団体が乗っていた時も、彼女たちがビールやピロシキを一度買うと次も必ず部屋に寄って声をかけていた)。ロシアの従業員も、少しずつ変わってきているようである(以前は、もれなく「不愛想」というイメージであったが)。私は時計を指差し、「後で」というジェスチャーをした。
 ふと外を見ると、何やら記念碑のようなものがあったので、とりあえず写真に撮る。

@この手の類はたくさんあったが、いかんせんいきなり現れるのでほとんど撮影不可能

 サーシャに写真を見せながら聞いてみたところ、記念碑ではなく、どうやらこれを境にして鉄道局の管轄が変わるという目印のようであった。
 アチンスクとボゴトルをそれぞれ定刻に出発し、本日の最後の長時間停車となるマリンスクには定刻より2分前の17時39分に到着した。
 降りてみて驚いたのが、恐らく軽く30度を超えている暑さであった(33~34度はあったかもしれない)。湿度はないが、肌に突き刺さるような暑さである。目の前を貨車が邪魔していたのでそれを迂回して駅前へ出てみると、当然のようにここにもSLが展示されてあった。

@ロシア号停車駅には必ずと言ってよいほどある

 駅舎に近い商店で夜用のピロシキを買い、ホーム戻って別の売店を物色する。しかし、すぐに指差しで買えそうなものは、やはりピロシキや茹でじゃがいもばかりである。とある売店に手のひらサイズの大きなエビを蒸したものが置いてあったが、この暑さを考え(しかも炎天下に放置状態であった)、さすがに諦めてしまった。
 小さな駅での長時間停車となったため、多くの乗客が降りてアイスを買って食べていた。先頭の機関車が付け替えられたので行ってみようとしたが、なんとホームから外れてしまっている。そこまで行っても怒られないかもしれないが、面倒なことになっても意味がないから、こちらも諦めてしまった。

@酷暑

 マリンスクを定刻の18時07分に出発。パソコンを打ったりしながら過ごし、タイガも定刻の20時12分に出発した。21時になり、陽はまだ高いが、クラスノヤルスクで買った鶏肉などで酒を呑み始める。ほどよく酔ったところで就寝、となるパターンであるが、ここで時計を1時間戻さなければならない。時計を戻すとまた気分的に随分と変わってしまうため、沈む夕日をしばらく眺めてから寝ることにした。

@夕日(22時40分頃撮影(21時40分とすべきかどうかは、地理的に微妙))

■2012.7.13 ロシア号6日目
 朝、6時頃に目が覚める。しばらくするとオムスクで、2分早着の6時18分着であった。この駅も、都市の規模に合わせた巨大な駅舎である。展示されているSLは最後尾の方、昨晩マリンスクで付け替えられた機関車を見たり高架橋に登るって町を見渡すためには先頭へ行かねばならず、停車時間は20分未満であるため、朝のちょっとしたランニング大会を行うこととなる。
 ロシア号は3番線に停まっていたが、私があれこれ撮影をしていると2番線に回送列車が入線してきてしまった。うっかり駅舎の方まで行っていたら、戻るのに大迂回しなければならなくなっていたため、危ないところであった。

@朝からホーム上を走る(後半は疲れて普通に歩いたが)

 オムスクを定刻の6時36分に出発。トイレへ行き、3回目の洗髪を済ませた。説明はなかったが、蛇口の根元にあるツマミをひねるとお湯になることを発見。室内に荷物等を掛けるフックもあるし、その気になればシャワーも可能である。必要なものは、カラの小さいペットボトルのみ(水を汲むために)。
 路盤脇にあるキロポストは、昨晩のうちに2,000キロ台の後半になっている。「まだ」か「もう」かは感覚的に微妙なところであるが。
 起きたばかりであるが、ここで時計をまた1時間戻さなければならない。シベリア地方では線路が迂回していたり起伏のためスピードが遅かったりしたが、昨晩辺りからはモスクワに向かってひたすら西進するため、時差の進み具合がかなり早くなってくる。
 周囲は枯れた白樺の木々が多く、北海道の野付半島のトドワラのようになっている。サーシャ曰く、足が嵌ると抜けなくなるような湿地帯だという。

@白樺の墓場

 外を眺めている私とは対照的に、サーシャは私の会話帳を元にしてカタカナの読みを勉強している。しかし、ロシア人向けの語学書でなないため、かなり難儀しているようである。しかも「ヴィ」「トゥィ」など、日本語ができる人でも難しいような表記が多々あるため、そのたびに私が読んでみせる。
 8時52分、定刻より2分早着でイシムに到着した。まだ朝だというのに、かなり日差しが強く今日も暑くなりそうな感じである。
 それまで車内で衣服を売り歩いていたおばさんたちは、ここで一斉に降りた。サーシャに訊いてみたところ、きちんと販売免許のようなものを持っているということであった。

@食べ物類と比べて、あまり買っている人はいなかった

 イシムを9時06分に出発。余談であるが、長時間停車の場合でも車掌は5分くらい前には乗車を促すので(確認するため)、今後シベリア鉄道に乗る予定の人は注意した方がいいであろう(日本人の感覚からすると、発車直前まで自由行動してよいと思いがちであり、それが元で車掌との問題に発展しかねない)。
 早朝から時差のため1時間時計を戻したため、まだ9時過ぎである。よって、少しだけ朝寝をした。その後は再び窓の外を眺め、ピロシキの車内販売が来るのを待っていた。
 しかし、これまで10時半や11時半頃に来ていたのだが、どうにもやってこない。そこで、最終日にもう一度行こうと思っていた食堂車へ行くことにした。
 メニューを見て、今日はサリャンカ(210ルーブル、マヨネーズ別料金で20ルーブル)とパン(12ルーブル)を注文した。単語程度の英語を話せるウェイトレスは、それをメモして去っていく。シベリア鉄道の食堂車というと、どの本やサイトを見ても「メニューはあるが何を注文しても『ニエット(ない)』ばかり」という記述が多かったが、今はもうそうでもないらしい。

@味は悪くないが、スーパーや露店に比べるとやはり高い

 そのようなことを考えながら運ばれてきたサリャンカを口にしていると、いつもの売り子がピロシキを抱えて売りに行った(12時頃)。明日こそあれを買ってみようと思う。
 部屋に戻ることしばし、12時38分に油田で有名なチュメニに到着した。ホームに降りると、昨日のマリンスクと同様の酷暑である。突き刺さる日差しに耐えながらホーム上をあちこち歩いて撮影していると、アイスとクヴァスを売っている出店があった。サーシャの推薦する通りに、ややソフトな感じのアイスを買い、それを炎天下のホーム上で頂いた。

@値段は40ルーブル(120円と思えば普通だが、日露の収入の違いを考えると少し高いか)

 それを齧りながら出発を待っていると、さすがはチュメニと言うべきか、数えきれないくらいのタンク車を連ねた貨物列車が目の前を通り過ぎて行った。中身は石油ではないかもしれないが、地理的になかなか絵になる風景であった。 

@撮影できるのは前の方の一部だけですが

 チュメニを2分遅れの13時02分に出発した。小一時間ほど景色を眺め、それから定番となってきた昼寝を1時間ほどして目が覚めると、キロポストが1,900キロ台の後半になっていた。時差が進むのが速くなったと同時に、西へ進むスピードも速いため距離がどんどん減っているのがわかる。
 サーシャは、まだ必死になってカタカナをやっている。上記に書いた理由以外に、「ソ」「ン」の違いなどはフォントではわかりにくく、私が紙に書いても差が出にくい。小さい「ッ」の説明も難しく、そう簡単に取得できるものではないようである。
 悪戦苦闘していたサーシャが、沿線に現れた鉄道工場を見るなり、写せというジェスチャーをする。どうやら、彼が働いている場所であるらしい(ここで働いているという意味ではなく、この系列の会社で作業をしているという意味であろう)。

@ここで働いても月収は10万円未満です

 単語だけの会話によると、レールと枕木を製造する工場(私が気になっていた例のもの)ということであった。どうしてそういう手順にするのか尋ねたいところであるが、お互いの語学力ではそこまで辿り着くことは不可能である。
 エカテリンブルグ(私の世代にとっては「スヴェルドロフスク」と言った方がわかりやすい)には、2分早着の17時35分に到着した。刺すような暑さの中先頭まで行って機関車の写真を撮り(今回、初めて晴れの日に逆光でなく撮れた)、急いで駅舎まで行って夜用の食材を買いあさった。
 ホームに戻ってみると、なんと大男のロシア人男性2人がホーム上で肩車をして、窓の汚れを拭いているではないか。平成版の宮脇俊三(ロシア人だが)を、まさに宮脇俊三が同様にして窓を拭こうとしたエカテリンブルグ(スヴェルドロフスク)で発見するとは、奇跡的なことである(写真を撮ろうとした瞬間に、作業は終わってしまった)。意味の分からない方は、宮脇俊三氏の『シベリア鉄道9400キロ』を参照してください。

@平成版宮脇俊三を撮れなかったので、売店で買った鶏肉を(普通サイズの足で100ルーブル(約300円)。やはり、賃金等に比して食費は高い気がする)

 さて、今日は最後の見どころとして、「ヨーロッパ・アジア・オベリスク」(ヨーロッパとアジアの境界線を示す碑)を撮影しなければならない。場所はキロポスト表示で1,778~1,777地点、チャンスは一度限りである。
 幸い、エカテリンブルグ出発後は、保線作業によって時速60キロ程度の減速運転であった。しかしロシアの鉄道は右側通行であるため、肝心の場所で反対側に貨物列車でも来たらアウトである。
 キロポストと睨み合うことしばし、逆光ではあったが、なんとかフレーム内に収めることができた。これで今日のお勤めは終了である。

@久々に緊張の撮影であった

 21時を過ぎてから食堂車へ行ってビールを買い、部屋で夕食を始める。珍しい銘柄のビールがあったので選んできたのだが、サーシャ曰く「チェコの」ということであった。
 連日私がビールを飲んでいることに触発されたのか、サーシャも食堂車へ行ってビールを買ってきた(ビールは飲めるのか、それとも、例えるなら「糖尿病の人の前で血糖値が高くなる食べ物を食べ続けて刺激してしまう」ようなことを私がしてしまったのか、どちらであるのかは不明)。柿ピー(イルクーツクで下車した日本人団体客が残していったもの)も、彼は食べられるらしい。なんだか、基準は不明である。
 ほどよく酔ったところで、例の食堂車従業員が「ピーヴァ?」と回ってきた。私は体よく断ったが、サーシャは2本目を買っていた(しかし買っただけで、カバンにしまっていたが)。
 大柄な女性従業員は柿ピーの袋を見て「これは何?」みたいなことを尋ね、「日本の食べ物だ」みたいなことをサーシャが答えてそれを勧めてみると、いくつか食べて「フクースナ(おいしい)」と驚いていた。
 なかなか沈まぬ夕日を待たずに、22時半頃に就寝。

@本日の夕食

■2012.7.14 ロシア号7日目(最終日)
 朝、6時少し前に目が覚めた。ほぼこれまで通りの時間であるが、寝ている間に時差が2時間生じてモスクワ時間になったため、実際はまだ3時55分である。そう考えると早すぎるため、二度寝をした。
 5時00分、定刻より21分遅れでキーロフに到着した。今日も快晴であり、他のホームでは様々な長距離列車や貨物列車、近郊列車が発着している。久々に下車した乗客は各々が体操をしたり、ホーム上を軽く走ったりしている。ガイドブックにあったように、なぜか人形を売っているおばさんが何人かいた。
 それらを撮影していると、蚊が何匹か体にぶつかってくるのを感じた。ロシア(シベリア)の夏と言えば蚊の大量発生というイメージがあったが、これまではまったくいなかった。今日のにしても、多少気になる程度である。

@今日も暑くなりそうである

 キーロフ出発は、遅れが増して24分遅れの5時24分であった。
 ふと気づくと、キロポストが示す距離が3桁になっている。さすがにモスクワに近づいてきたと思ってしまったが、よく考えたら東京から広島くらいまであると思うと、それだけで1回の旅行である。
 朝食を終えたサーシャが、部屋のドアを閉めて徐に一つの荷物を恭しく開けた。かなり精密な彫り物が施された木製の板で、重厚な造りである。何やらゲーム版のようであるが、ウクライナに持って行く土産であるという。娘がイスラムということで、それに関係するものらしい(これ以上のことは、単語会話では読解不能である)。わざわざドアを閉めたということは、こういうものを持っているということを他人に見られたくない(狙われたくない?)からなのだろう。他に、以前の仕事(空軍時代)の勲章なども見せてもらった。ちなみに空軍時代の職場はラブテフ海のレナ川河口付近で、冬はマイナス43度くらいになったという。
 長時間掛けてそのような「単語会話」をしても、時差の関係でまだ7時である。再びベッドに横になった。
 1時間後に起きて、外の景色を眺める。大きな橋梁が建設中であった。

@20年前にこのようなものを撮影したら、スパイ容疑で警察行き(鉄道、とくに鉄橋は軍事上重要であるため)

 偉大なるヴォルガ川を渡り、しばらくするとニージニー・ノヴゴロドであり、遅れを挽回して2分遅れの10時43分着であった。ホームは、日本と同じような高床式であり、ウラジオストク以降初めてであった。都会になってきた証左でもあるが、その代わりに田舎の駅のような「見どころ」もないため、ホーム上で適当にぶらぶらして時間を潰した。

@ヴォルガ川の流れ

 同駅を定刻の10時53分に出発し、しばらくは街中を走行する(しかし、100万都市を実感できるほど住宅は密集していない)。10分ほどすると、右手に大量のSLが展示されている鉄道公園のようなものが見えてきた。大小様々、十数両は展示されていたであろうか。隣室の家族連れも、珍しそうにそれを写真に収めていた。

@SL公園

 その後は再び沿線風景を眺め続ける。時折工場が現れるが、これまでは工場=朽ち果てそう(もしくはすでに朽ち果てて廃墟になっている)であったが、この辺りから新しい工場(外資系を含む)が増えてきた感じがする。
 時刻はすでに12時過ぎ、今日はどうやらピロシキの車内販売ななさそうである(結局、一度も買えなかった)。
 右手に大小さまざまな教会が見えてくると、最後の停車駅であるウラジミールである。到着は1分早着の14時11分であった。

@到着前に沿線に見えた教会

 ここで、先頭の機関車が赤色のものから緑色のものに交換された。その様子を少し見てから、炎天下のホームを最後尾まで行ってみる。駅舎の横にはSLが展示されてあり、その向こうには遠くに教会のとんがり屋根も見えている。暑さに負けて、他の乗客と同様に売店でアイスを買ってしまう。

@アイスと駅舎と貨物列車

 ウラジミールを定刻の14時35分に出発、あと3時間程度で終着のモスクワである。
 シベリア鉄道の旅行記を見ると、到着の数時間前から降りる準備をし始めるというものがあるが、確かにその感覚は少しわかる気がした。3時間といえば新幹線で東京へ行く際に岡山を出発した後くらいであり、その時点で降りる準備をするようなものである。
 荷物を片付けて、せっかくであるからサーシャに何かあげようと考えた。20~30年くらい前であれば、日本製の薄型計算機やパンストなどが喜ばれたというが、今はそういう時代ではないし、だから私はそのようなものは何も用意していない。そこで、髭剃りをあげることにした。
 というのも、昨日の朝のことであるが、サーシャが剃刀負けをしてかなりの出血をしていたのである。私が持っているのは旅行用としてすでに3年ほど使用しており切れ味も鈍っているが、元は4枚刃の質の良いもの(安全性の高いもの)であり、サーシャが使っているような中国製の2枚刃よりは百倍いいだろう。
 それを渡すと、彼は喜んでくれて握手を求めてきた。その後は廊下で沿線風景を見ていたのだが、肩をたたかれて部屋に入ると、お返しにロシア正教の数珠(と十字架)をくれるという。かえって高価なものをもらってしまうようで気が引けるが、こういう場合は素直にもらった方がいいような気がしたので、ありがたく頂戴することにした。

@正式名は「コンボスキニオン」

 沿線の風景は、若干建物が多くなってきたものの、まだ田舎風景である。残り1時間となり、キロポストは52キロになったが、まだ白樺ばかりの風景ですぐ先にモスクワがあるようには思えない。
 ここまでの7日間は、長かったようであり、そうでもなかったような複雑な心境である。最初の時ほど先の長さに唖然として、最後の方ほど意外にあっさりとしている感じがする。これは、数年前に四国遍路を達成した時と似たような感覚であると思った。
 残り30分、キロポストは23キロになり、さすがにアパートなどが多くなり、通勤等に使用されるエレクトリーチカの駅が多くなってすれ違う旅客列車も多くなっていった。
 次第にスピードがゆっくりになり、厳かな儀式でもするかのように、モスクワ(ヤロスラヴリ)のホームに滑り込んだのは、定刻より1分前の17時42分であった。

@お疲れさまでした

 サーシャと一緒に地下鉄に乗り隣駅のクールスカヤへ行き、ウクライナへ行く彼とはここで別れた。私は地下鉄を乗り継いでホテルへ行き、久々のシャワーを浴びてすっきりとした。
 どのように感慨深いのかを説明するのは難しいが、これまでにない旅を終えたという実感だけは残っているような気がした。

【おまけとして】
 果てしなく長いシベリア鉄道の旅を終えた後ではあるが、翌日も夜の飛行機の出発まで性懲りもなく鉄道ネタを集めた。以下、メモとして残しておきたい。

■2012.7.15
 朝食後にヤロスラヴリ駅へ行き、世界遺産でもあるセルギエフ・パッサート(セルギエフ・ポサード)への切符を買う。駅舎にある切符売り場ではなく、屋外の近郊列車発着場の近くにある窓口で買った(ガイドブックにある説明と違うので要注意)。

@切符売り場(これらのどこでもよい)

 8時24分発のセルギエフ・パッサート行は7番線に停まっていた。他のホームにある車両と違い、これだけ旧い形式であり、私としては嬉しくなる。逆に言えばこの車両だけ座席が鉄板(ウラジオストクで乗車した板張りより酷い)であり、他の車両(薄いソファー)より条件が悪いことになるが、この辺りは一般人との感覚の違いであろう。

@どうせなら、旧い方(じきに消えるもの)に乗りたい

 8時24分、列車は定刻に出発した(時刻はhttp://www.tutu.ru/で検索した通りであった)。何人かの乗客は、車内に犬や自転車を普通に持ち込んでいる。犬に関しては、ロシア号でも同様であった。
 セルギエフ・パッサート到着は、定刻から1分遅れの9時53分であった。有名な大修道院までは、歩いて20分程度である。

@詳細については、門外漢の私による解説では不十分なので、歴史好きな方のサイトで調べてください

 修道院で小一時間ほど過ごし、駅へと戻る。モスクワへは、11時44分発のエレクトリーチカで戻った。今回は車内の物売りとパフォーマーが数珠つなぎ(?)状態で、前者は衣料・文具・玩具・アイス・バッグなど、後者は定番のアコーディオン以外に、アンプにギターとマイクを繋いで本格的に演奏する人までいた。

 さて、次の鉄道ネタは、リガ駅にある鉄道運輸博物館(“музеи железнодорожного транспорта”の直訳)である。日本人には鉄道好きが多く、たいていの海外の鉄道関係施設については訪問記などが多数インターネット上にあることが多いが、この施設に関しては何故かほとんど見つけられなかった。「そもそもガセネタかも」と思いつつリガ駅付近へ行ってみると、意外なほど立派な展示施設があった。

@入口

 入場料が150ルーブルで写真撮影が200ルーブル、合計で350ルーブル(千円超)とモスクワ基準からするとバカ高いが、展示されている車両はおそらく50~60両以上あり、それなりの見応えがある(説明書きがロシア語だけなので、せめて英語が欲しいところである)。

@SLの例(かなりたくさんあり)

@電気機関車の例(これも多数)

@電車の例(機関車に比べると少ない気がする)

 その他、旧い貴賓車のようなものや作業用の特殊車両など、様々なものが展示されている施設であった。
 展示車両を一通り見てからは、少し時間があったのでクレムリン周辺(赤の広場など)を小一時間ほど散歩した。その後は地下鉄でベラルースカヤ駅へ行き、空港行のアエロエクスプレス乗り場へと向かった。長かったロシアの鉄道づくしの旅であるが、この車両で乗り納めとなる。

@最後は現代的な車両で

 その他、今回の旅で気づいたこと(既述したものが多いが)を書き記しておきたい(今後の参考になれば幸いである)。
・露店販売は規制され禁止された模様(「歩き売り」や「敷地外での販売」は可能)
・写真撮影は規制されない(エレクトリーチカも同様であった。ただし田舎は対象外。今回も、ウゴリナヤで警察に喧しく言われた)
・食堂車は、注文したものが「普通に」出てくる可能性が高い
・古い慣習(シーツ代を徴収したり、車掌がやたらチャイの営業に来たり)はすでにない

 その他、鉄道運輸博物館については、鉄道が好きな方はぜひ訪れてみては如何であろうか。ちょっとした暇つぶしにはなるであろう。

@ロシア号の切符

【以下もご覧ください】

動画で補足・シベリア鉄道9300キロ

写真で補足・シベリア鉄道9300キロ

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