■はじめに
昨年(2010年)から海外に行くようになったが、費用や時間の関係から、近場である東南アジアなどが中心になっている。しかし、これは致し方ないところではあるが、気づいてみると「一番近い国」に行っていないことになっている。
一番近いというと、多くの方は韓国と思われるかもしれない。台湾も与那国の目と鼻の先だが、実質的に一番近いのはロシアなのである。日本固有の領土であるはずの北方領土を持ち出さなくとも、天気の良い日には宗谷岬から見ることもできるサハリン(ロシア領)こそが、最も近い隣国ということになる。
そこで、春先からサハリン行の手配をし始めた。サハリンの鉄道旅行に強いT社に見積もりを依頼し、旅行時期や日程をあれこれ考える。最初は9月頃を考えていたが、より日の長い時期の方が良いということと、日本のお盆も関係ないため8月も9月もほとんど旅費が変わらないことから、8月の前半に行くことにした。往復の手段については、成田発着が一番手頃だったが、やはり「未知の土地」へ渡航するには船舶の雰囲気が最良であろうということで、往路は稚内からのフェリーにすることにした。旅費自体は航空機での成田往復とあまり変わらないため、もちろん稚内に移動するための国内旅費が余計に追加されてしまう。しかしそれはそれ、遠路はるばるサハリンに渡った当時の宮沢賢治の気分で北上すればいいだろう。
賢治の気分をなぞらえるためではないが、稚内へは羽田からの直行便を利用せず、朝一番の羽田発で新千歳に飛び、そこからJRで札幌へ、大通バスターミナルから高速バスで稚内へ向かうこととした。実質的に、一番安く移動する手段でもある。
【旅程】
1日目:羽田→新千歳(AIRDO)、新千歳→札幌(JR)、札幌→稚内(バス)【稚内泊】
2日目:稚内→コルサコフ(フェリー)、コルサコフ→ユジノサハリンスク(送迎)【ユジノサハリンスク泊】
3日目:ノボジェレーベンスカヤ往復(ローカル鉄道)、ユジノ市内観光(子ども鉄道など)、ユジノサハリンスク→ノグリキ(夜に1番列車に乗車)【車中泊】
4日目:昼前にノグリキ到着、ノグリキ観光(廃線跡など)、ノグリキ→ティモフスク(夕方に2番列車で移動)【ティモフスク泊】
5日目:ティモフスク→ユジノサハリンスク(一日かけて968列車で移動)【ユジノサハリンスク泊】
6日目:ホルムスク往復と観光(路線バス)、ブイコフ往復(ローカル鉄道)【ユジノサハリンスク泊】
7日目:ユジノ市内観光(お土産買いなど)、ユジノサハリンスク空港へ(送迎)、ユジノサハリンスク→成田(ウラジオストク航空)
■2011.8.3
まずは、早朝の一便に搭乗して札幌へ向かうことになる。羽田に移動して搭乗手続き。飛行機自体は普通に運行したが、札幌に着いてから、持ち合わせの現金が少ないことに気が付いてしまった。あまり日本円を持って海外をうろつきたくないため、最低限間に合う額として、宿代とプラスアルファの雑費の1万5千円を持ってきたのだが、札幌から稚内までのバスが現地払いだったことに今更ながらに気が付いてしまったのだ。
詳細を書いても仕様がないためこの後の展開を箇条書きにすると、①郵便局と銀行のカードを家に置いてきてしまった(紛失防止のため)、②3枚も持ってきたクレジットカードのキャッシングは使用できなかった(キャッシングできるカードに限って置いてきてしまった)、③結局、万が一用に用意していた150ドルのうち、泣く泣く90ドルを“超低レート”で交換して日本円にした、である。
路線バスで稚内へと向かう。しかし、後半の大部分は日本海沿いに走るルートであり、晴天だったため景色自体は楽しむことができた。
稚内の宿は、南稚内駅近くにある、某旅行サイトで夕食の評価が満点である民宿である。サハリン旅行の前祝ではないが、一人で祝杯を重ねた。

@前祝の大量の海産物
■2011.8.4
8時頃に宿を出て、国際フェリーターミナルまで歩くこと約30分。稚内のターミナルは利尻・礼文に行くために何度か利用したことはあるが、数年前に移転して新しくなっており、そのすぐそばに国際航路のターミナルがあった。
手続きを済ませ、待合室で時間をつぶす。アナウンスがあり、9時に乗船した。無料の弁当とお茶をもらい、二等室の片隅に陣取る。出航まで1時間ほどあり、さてどうしようかと思い、置いてあったスポーツ新聞を読んだり入国書類を書いたりしていたら、定刻の10分前に動き出してしまった。慌てて外に出たが、もう岸壁は数十メートル先になってしまっている。別に誰の見送りもないから、問題ないだろうと言われればそれまでだが、「これから海外に」という気持ちを込めて出たい気もなくはなかった。

@コルサコフへのフェリー
船内には40人ほどの乗客がおり、その4割くらいは日本人である。日本人もほとんどはかなりの高齢者(サハリンへ「戻る」ような方)であり、旅行者のような風采の人は数えるほどしかいない。必然的に声をかけられるようになり、私と同じく鉄道で周遊する方(トマリ方面まで行くという)や、バイクを持ち込んで走り回るという方と情報交換をして時間を潰した。コルサコフまでの所要時間は5時間半、残りの時間は、自販機の100円ビールを飲み(税金がないため安い)、左手に広がるサハリンを眺め、BSテレビを見ながら微睡むのみである。

@無料弁当と100円ビール
左手にはサハリンの陸地が見え続け、右手の遠くにLNG(液化天然ガス)プラントが見え、次第にコルサコフが近づいてきた。やけに接岸に時間がかかっていると思ったら、なんと船尾を直角に係留させるようである(たいてい、船腹を陸地に沿わせるのだが)。接岸する先には屑鉄のようなものが大量に置いてあり、それを乗せた貨物が機関車に引かれて行ったり来たりしている。

@コルサコフ港の引込線と貨物列車
上陸後は宗谷バスの中古車で入国審査の建物に向かい、人数の割には無駄に時間をかけて審査をされ(時間がかかる割には、私のような個人客に対しては何も聞かないし、バッグの中身すら見ようとしない)、接岸後1時間くらいしてやっと入国した。
コルサコフからは、旅行会社が手配したガイドの案内でユジノサハリンスクへと向かう。トヨタの中古車は、高速でもない道路を普通に100キロで飛ばしていく。
宿泊先は駅直結のユーラシアホテル。ガイドに、フロントに対して言いたいこと(明日のチェックアウト後に荷物を預かってほしいことや、朝食の時間や場所などなど)を訳してもらい、部屋に入る。聞いていた通り年代物の部屋であり、NHKが見られるはずのテレビは砂嵐もしくはロシアローカルのみだが(日本が地デジになったせい?)、これはこれで雰囲気を楽しむと思うしかないだろう。

@部屋からの眺めは良い
部屋に荷物を置き、歩いて15分ほどのところにある24時間スーパーで、ビールやパンや惣菜を買う。惣菜売場は対面式だが、私はロシア語知識がほぼ皆無なので、「エータ、アジーン(これ、1)」と指差したが、それでもうまく買うことができた。
ロシアっぽい惣菜をつつきつつ、ロシアビールを飲み、この旅行記を書きつつ、初ヨーロッパ(北海道のとなりだが)の夜は、21時半前になってやっと暗くなっていった。

@ここ数年で、この手のスーパーも出来てきたという
■2011.8.5
昨日の夕方、送迎をしてもらっているあたりから喉の痛みを感じ始めていた。この手の感触がある場合、2~3日後に大風邪になることがあるので厭な感じがしていたが、夜中からかなりの喉の痛みになってしまい、朝になると若干の熱とけだるさがある。悪化しないことを祈るばかりである。
天気は雨のようで、部屋から見える駅前の広場には水たまりができている。しかし、朝7時くらいになると雨は止んで曇天になっていった。
さて朝食であるが、このホテルの朝食については各個人サイトで評価がちらほら乗っているが、以前はホテルにある食堂であり、その後は食堂がなくなったため近くにある別のホテルの食堂に案内された、というのもある。さてどうなるのかと説明を聞いたら、なんとホテルの1階にあるファストフード(ハンバーガー)だという。私はもともと朝食は採らないからなんでもいいのだが、せっかくならばロシアらしい朝食を頂いてみたかったものでもある。

@サハリンでハンバーガーとは…
今日はまず、盲腸線の終着駅であるノボジェレーベンスカヤへ行くこととする。荷物の大部分をリュックに入れてホテルに預け、小さい鞄のみになって8時前に出かけた。駅に行って(と言ってもホテルに直結しているからすぐ隣りだが)、紙に「6001 Новодеревенская」と書いて渡す。最近はこの手の変な日本人も増えたせいか、窓口のおばさんも紙に「28.8」と金額を書いて返答してくれた。

@数年前はもっと旧い体裁だったらしいが、切符もずいぶんと洒落てきた
切符を手にしたのはいいが、ホームへの行き方がわからない。目の前に1番線はあるがドアには鍵が掛かっており、地下道も橋も見当たらない。また窓口に並ぶのは面倒なので、入口で警備をしていた怖そうな警察官に聞いてみると、彼はしばらく考えてから、ジェスチャーで「ぐるっと回って外から2番線だ」ということを伝えてきた(そういう意味だと私は思った)。駅の外に出て適当に歩くと地下道入口があり、そこに入って適当な階段を上がると2番線に出た。偶然当たったからいいようなものだが、そもそも駅舎からホームに行けないというのも日本では考えられない造りである(後日ここを散策したのであるが、この地下道は駅の反対側に抜ける連絡通路でもあった)。

@Д2型ディーゼルカー
さて、初乗車である。ロシアの鉄道は軍事関連であるため以前は撮影絶対禁止であり、最近はそうでもなくなってきたという話もあり、さてどっちなのかと思ってサボ(行先票)を撮影していると、車両入口で切符を確認していた中年のおばさん駅員がかなりの剣幕で注意してきた。なるほどそういう対応をされるようだが、写真のデータを消せとも言われないし、他の駅員はなんとも思ってないようなので、なんというのか、旧ソ連の古い慣例から抜け切れない(つまり20年以上前から務めている)駅員や警察官からは注意されるのかもしれない。

@これを撮ったら怒られた(行先票はブイコフ行と共有)
ブォンという低い響きの汽笛が鳴り、定刻の8時20分に出発した。すぐに右手には展示されている様々な車両が現れ始め、左手には廃車をカラーリングしたものが見えてきたりする。そしてすぐに本線と分かれて、以前はホルムスクまで続いていた豊真線(ノボジェレーベンスカヤから先は廃止になってしまった)へと入っていった。
ディーゼル車である「Д2型」の車両は4両連なっており、乗客はおおよそ4~50人であろうか。ユジノサハリンスクを出て数分も走ると人家のほとんどない鬱蒼とした平原を走り始め、コンクリート片が見えたかと思うと、8時40分に最初の駅に着いた。周囲には何もなく、小さな低いホームがあるだけで、駅名標には数字が書いてあるだけである。ここで10人ほどの高齢者たちが下りて行ったが、この先のどこに人家があるのかは定かではない。

@途中の小駅
1分程度の停車ですぐに出発したが、坂になってきたためかスピードはゆっくりになってきた。次の駅の到着は8時47分、駅名票からすると「16km」駅である。同駅を出発した後はさらに坂がきつくなったようで、ゆったりと走り、終点のノボジェレーベンスカヤには、定刻の8時53分に到着した。吃驚するくらいに何もないところだが、それでも30人以上の乗客(高齢者ばっかり)は、迎えの車もなく歩いてどこかに行ってしまった。

@駅名標の類は新しく作られたようである
駅にはマラコー(牛乳)売りがいて、バンに積んでいる小さなタンクから小分けにして売っている。1日に2往復しかないこの路線で、このような商売があることに驚く。マラコー売りがどこかに行ってしまうと、辺りはさらに閑散としてしまった。念のため行き止まりになっている先まで行ってみたが、路盤らしきものは残っていなかった。

@ノボジェレーベンスカヤ駅遠景(左手の車がマラコー売り)
さて、あとは折り返しの列車で戻るだけである。2両目には人がたくさん(と言っても7~8人だが)いたため3両目に乗ったのだが、女性の車掌が来て「前の車両に移ってくれ」と言う(聞き取れたのは語尾の「パジャールスタ」だけだが、前の車両を指差したら「そうだ」という感じで頷かれた)。何かと注文が多い。
(余談だが、車掌はもれなく女性のようなので、これからは「女性の」は省略することにする)
出発すると、車掌が目の前に座る。私が「ゆーじの、さはりんすく」とゆっくり言うと、複写式の手書きの切符を書き始めた。旅行者としては記念になるからこれでいいが、1人当たりの時間が結構必要であるため、日常業務としてはその能率性に若干の疑問があると思われる。

@乗客全員分、これを作らなければならない
ユジノサハリンスクに戻ってからは、まず薬局探しである。非常用に風邪薬は持ってきたが、これからノグリキ方面に行って途中で薬が切れてはたまらないので、都市部で押さえておく必要がある。薬局は意外に簡単に見つかり、ガイドブックにあるような片言のロシア語で風邪薬を買うことに成功した。買ってからふと気づいたのは、はたして1回で何錠飲めばいいのかわからない、ということであった(注意書きにある数字から憶測し、勝手に「1回2錠」と決めてしまったが)。
あとは、ひたすら歩いての観光である。勝利広場などを経由し、ガガーリン公園にたどり着いた(風邪の体で2時間以上も歩いたため、かなりしんどくなってしまったが)。ここに来たのは、「子ども鉄道」があるからである(詳細を書くと長くなってしまうため、気になる方は余所様のサイトなどをご参照ください)。

@湖畔に佇む子ども鉄道
この手の鉄道に乗るのは家族連れかカップルと決まっており、その手の組み合わせが5組ほどと、あとは変な日本人1人だけ(つまり私のこと)である。出発すると小学生くらいのロシア人が、車内案内と切符の確認を行った(ロシア語なので内容は聞き取れないが)。途中駅で3分ほど停車し、公園内をぐるっと回って元に戻る。子どもの運営にしては上出来である。

@今日の車掌さん(大きくなっても、写真を撮ろうとしてる観光客を怒らないでください)
さて、気になったことをメモしようとすると、なんとボールペンが書けなくなっているではないか。まだ使い始めであるのに、強く書こうが弱く書こうが温めようが、どうにも書けなくなっている。旅のメモくらいどうでもいいし、覚えていることだけ後で書けばいいじゃないか、と思われるだろう。それはその通りであるが、海外の旅で重要なのは「筆談具」としての意味合いなのである。ロシア語で「スコーリカ ストーイト(いくらですか?)」と聞くのは簡単だが、その答えが3桁にもなると聞き取れないため、紙でのやり取りがこの上なく重要なのである。
嘆いても仕方ないため、また市内をあれこれ歩き、日本時代の建築物である郷土資料館に入って見学したりする。その後は自由市場に向かったが、ついに雨も降り始めてしまった。

@資料館には交通関係の資料もあり
自由市場に着き、小さな個人商店でペンを15P(ルーブル)で買う。あとは適当に食料品店などを覗いて、もう歩く気力も体力もないため駅へ戻って待合室の椅子に座る。かなり体調は良くなく、雨さえ降っていなければ駅前の公園で横になって休むのだが、それもできず、仕方なく座ったままで30分ほど気を失った(ロシア製の風邪薬が働いているようである)。
その後はまた30分ほど散策し、また30分ほど待合室の椅子の上で眠る。ふと用無しになってしまったボールペンを手に取って捨てる前に書いてみると、なんと普通に書けるではないか。買い直したのは安いペンだからいいものの、なんだったのかと思う(結局、2日後にまた書けなくなったので捨ててしまったが)。
それから昨日と同じスーパーに行って、今晩用の惣菜(シャシリクなど)やパンを買い、ホテルに行って荷物を返してもらい、再々度待合室の椅子で、この鐡旅の続きをしたためる。それにしても、かなりの大雨なのに傘をささないで歩いている人が多いのに驚く。ちらほらと傘をさしているのは女性に少しいるだけで、男はほとんど、若い女性でも普通に濡れて歩いている。
20時になり、アナウンスがあって待合室にいた人々がわらわらと1番線へと向かい始めた。私も売店でビールと水と飴「らしき」ものを買う(ちなみに飴は日本製と韓国製しかなく、日本で買う2~3倍の値段(150P程度)だったため、ばからしいのでお菓子風の「ロンド」にしたのであった)。
ホームへ行き、宛がわれた4号車へと向かった。先頭が14号車で、なぜか2両目から1号車が始まっている。駅構内を撮影すると咎められると思ってしないつもりだったが、ちょうど警察と車掌の切れ目(?)があったため、こっそりと撮影した。

@こっそり
車両の入口で切符とパスポートを確認され、急階段のデッキをよじ登るようにして乗車する。私はまだいいが、高齢者などは乗り降りだけでかなり苦労している。
指定されたコンパートメントには、すでにロシア人(初老の男性)が1人いた。彼はこちらが日本人だとわかると「コンニチハ」と言い、人は良さそうであれこれ話しかけてくるが、いかんせんこちらのロシア語能力が最低限であるからどうしようにもならない。とにかく、「ノグリキに行くこと」「日本人だということ」「ロシア語は話せないこと」まではわかってくれたようだ。
出発の定刻は20時30だが、その3分前に衝撃があって少し動いてしまった。飛行機や船ならたまにある早発だが、予定の乗客が全員乗ったかどうかの確認が難しい鉄道では珍しいことである。入口で車掌が確認しているから、ロシアなら可能なのかな、と思っていたが、思い直したのか(間違いだったのか)すぐ止まり、結局定刻から2分遅れの20時32分に出発した。雨のせいで、まだまだ明るいが外の景色は靄っている。ユジノサハリンスクの町中を出るとすぐに、農地もなにもない大地だけが広がるようになった。

@コンパートメントの様子(翌日撮影)
もう1人いた同部屋の方は、やはり日本人で、夜行だけでノグリキ往復をされるという。その方と海外の鉄道事情のことなどをあれこれ話しながら、スーパーで買ったシャシリクなどをつまみにさっさと夕食を済ませ、体調がすぐれないためすぐに寝ることにした。本来ならば、陽の明るいうちは時刻表を参照しながら外の眺めと駅の通過などを確かめたいところであるが、とてもそれを許される体調ではなくなってきている。

@おやすみなさい(車内の窓のカーテン)
■2011.8.6
車内はかなり暑く、熱の暑さも加わって何度もうなされながら起き、炭酸水を飲んでは横になり、そして目をつむり続けた。
目が覚めたのは午前6時頃、時刻的には旧国境の北緯50度線を越えている辺りであろう。車内備え付けの給湯器のお湯で作ったコーヒーを飲み、晴れてない外の景色を眺め続ける。ツンドラのような、低木と白樺の枯れ木のみがひたすら続くだけである。
7時14分にパーリェヴォに着いたが、定刻はらは7分の遅れである。その遅れを引き摺ったまま、ティモフスク到着は定刻より13分遅れの9時45分であった。今日は夕方にノグリキから折り返してきて、ここで泊まる予定である。この列車はもともとこの駅で30分ほど停車する予定だったが、それが短縮されることになる。

@車掌と野良犬たち
周囲に何もない駅であるが、客車だけで13両もある長大な編成からは何十人という乗客が降りていった。駅自体にはなんの設備もなく、ホーム上にも、売り子の姿1人すら見えない。いるのは、ガタイの大きな野良犬が数匹と、乗客の乗り降りを見届けている車掌、あとはタバコを吸うために降りている乗客だけである。ホーム上で車両の撮影をしていると、若い車掌がこちらをスパイでも見るかのような眼差しで睨んでくる。
後ろ側の客車を2両ほど切り離して、定刻にティモフスクを出発した。ノグリキが近づき、同室のロシア人が別れの握手を求めてきたが、まだ定刻より5分ほど早い。駅の直前でかなり低速運転になったが、それでもノグリキ到着は1分早着の10時21分であった。細かいことは気にする必要がないのであろう。

@最果ての町だが、列車到着時は賑わう
駅前には、各方面に行くバスが数台停まっている。北限の地であるオハ行だけは普通の小さなバスだが、それ以外は自衛隊の特殊車両のような大げさな図体である。いったい、どこへ行くバスなのであろうか。
体調はかなりすぐれないが、滅多に来る場所ではないため、無理をして歩く。まずは30分ほど歩いて狭軌の貨物駅を探しにいったが、駅舎は影も形もなくその面影は横にいくつか並んだ路盤跡らしきものだけがあり、レールすら残っていたのはほんの一部で、廃れた車両が数量残されていただけであった。周囲は自動車解体工場などの集まっている地域で、治安が悪いというわけではないだろうが、あまり1人で近づかないほうがいいかもしれない(もし行くのであれば、廃線跡が大きな道路と交差しているところがあるので、そこから路盤跡の上を歩いた方がいいだろう)。

@貨物駅跡近くにあった廃車
さらに30分ほど歩き続けて、ノグリキの市街地へと入った。勝利公園にある記念碑の写真を撮ってからは、目抜き通りにあったスーパーで惣菜を買い、それを勝利公園でいそいそと食べ、薬を飲んでベンチの上で30分ほど横になった。それですぐに回復するわけでもないが、多少は楽になった気もしないでもない。
休んだ後は、再び目抜き通りを歩き、薬局を見つけてそこで薬を追加する。ロシア語で「ヤー プラストゥジールシャ(私は風邪をひきました)」と言うとおすすめの薬を出してくれたが、パッケージには容器の中でお湯で溶かしたイメージ図がある。「いやぁ、旅行中なんで、こんな風に溶かして毎回飲むのは難しいし、なんか錠剤でおすすめのありますか?」をロシア語にできる能力はないため、ユジノサハリンスクで買った手持ちの錠剤を見せたら、それと同じものを出されてしまった。できれば違うものを試したかったが、もうそれで諦めることにして1箱買って薬局を後にした。

@ノグリキ猫
あとは、特に見る物もないので駅に戻るだけである。軽便鉄道の路盤に行くことのできる「朽ち果てそうな橋」があるということを余所様のサイトで読んでいたので、それを求めて行ってみると、朽ち果てそうどころか、もうほとんど朽ち果ててしまった上に、様々な板張りを重ねた状態になっていた。すべって落ちれば面倒なことになるが、せっかくだから気を引き締めて渡った(ただし、渡り終わった後は大きな道路に出るまで人の気配がほとんどないため、1人歩きはあまりしない方がいい地域であろう)。

@敢えてこれを渡る
軽便鉄道は、そのレールもすべてが剥がされてしまっていた。一部の枕木しか残っていない路盤跡の上を歩いて、駅へと戻る。暑くはないが(天気予報では23度程度)、風邪による熱と薬の作用による発汗で、髪の毛はびっしょりになるほど濡れてしまっている。

@軽便鉄道路盤跡
やっとの思いで駅に到着し、駅前にある小さな市場の個人商店で、パンと水を買う。本当は明日の夜までの食材を買いそろえなければならないが、昨日買った食材などもまだ残っているし、風邪のせいでガツガツ食べるほどの食欲もない。
ノグリキから乗る列車は、折り返しのユジノサハリンスク行2番列車である。そのまま乗り続ければ翌朝にはユジノサハリンスクに戻ってしまうが、途中のティモフスクで降りて、正体不明のホテルに泊まり、翌朝の列車でユジノサハリンスクへ戻ることになっている。こうすることによって、オホーツク海の眺めを見続けることが可能になる。

@ノグリキの駅舎
待合室で2時間ほど休み、アナウンスがあってからホームに行って宛がわれた車両に上り込む。コンパートメントには先客がいて、青年とその父親らしき組み合わせである。
定刻の17時15分にノグリキを出発してからは、廊下で立って外を見る気力もなかったため、座ったまま頭を壁に寄り掛からせて休んでいた。父親らしき方が英語で「ツーリストか」「日本人か」ということを聞いてきたので、「ダー」とだけ答える。その後、息子らしき人とロシア語で何やら確認してから(「ハウ」が聞こえたので、おそらく「おい、英語で“どう”を訊く場合は“How”でよかったっけ?」「ああ、そうだったと思うけど」のような会話)、父親らしき方が「ハウ、フクシマ」と訊いてきた(Be動詞を省略してしまうあたりが、ロシア人の使う英語っぽいが)。私は「漏れている総量は多くないから心配ないと思う」というようなことを英語で適当に答えておいたが、あまり納得していないようだった。

@川を渡る
2時間ほど走ると、ティモフスクが近づいてくる。車掌が来て、もうすぐだ(というようなことだろう)を伝えてくる。広めの操車場が現れ、そこに放置されている車両の一部にJRカラーのキハ58系が混ざっているのが見える。ティモフスクに着いてホームに降りたが、駅の建物の隣でおばさんがイチゴと赤色のベリーを売っているだけで、他にこれといったものは何もない。
今日の宿は、アグロリテセイというホテルである。ホテルと言っても微妙なものであり、正式名は「州農業専門学校付属宿泊所」だという。いずれにせよ、旅行会社から渡されている地図をもとに歩くだけである。薄ら寂しい道を歩き出すと、ボロい車に乗ったおじさんが何やら話しかけてきた。風采からして白タクではなく、「乗っけて行ってやろうか」的なものに感じたが、会話ができない状態で無理はすべきでないと思って体よく断った。

@町に活気はない
朽ち果てそうな家々や廃墟となった工場跡などを眺めながら25分ほど歩き、それと思わしき建物にやってきた。しかし着いたのはいいが、どうしていいのかわからない。入口は東側にあるという情報は得ていたが、最初のドアはまったく違うものであった。子どもを遊ばせているおばさんがいたので、その隣のドアを指差して「ガスチニーツァ(ホテル)?」と訊いたら、そうだと頷く。安心してそのドアから入ってみると、確かに宿泊所のようなドアがいくつかあるが、声をかけても誰もいないし、どのドアも開かず、廊下には旧いソファーが重ねて放置してあるだけである。再び外に出て、座っているおばさんに両手を広げて首を振って「誰もいない」旨を伝えると、携帯電話を取り出して連絡をしてくれ、5分後くらいに太めのおばさんが現れた。まだ日が長く20時をとっくに過ぎているのに明るいからまだいいが(そのおかげで子どもを遊ばせているおばさんもいたので)、暗い時期では途方に暮れてしまうであろう。

@ホテル・アグロリテセイ
崩れそうなブロック重ねの外観の建物の割には、部屋の中は普通である(壁紙等を新しくしただけなのだろうが)。元気であれば近場を散策したいところであるが、いずれにせよ、今日は薬を飲んで寝るだけである(簡易な夕食は、ティモフスクまでの乗車中に済ませてしまった)。
【旅行記の後半は、以下をご覧ください】
【以下もご覧ください】
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