修正版再掲・将軍様の鐡(後編)

鉄旅(海外)
北朝鮮の機関車

■2018.9.13
 昨日まで快晴であったが、今日は曇り気味である。6時半集合と早いためその少し前に荷物を纏めてエレベータホールに出ると、停電になった。外国人向けホテル(特に外国人フロア)は電力融通が優先されていると聞いていたが、それでもこの有り様である。
 6時40分に出発し、別のホテルで他の参加者と合流し、平壌駅に向かった。
(駅の撮影はしないようにブリーフィングで言われていたが、旅行中にガイドに確認したら、平壌駅は大丈夫ということであった)

@遠景も撮りたかった…

 他の人民とは違って、外国人は横にある別の入口から入ることになる。入って右手が待合室になっており、品物もまばらな小さな売店があり、プロパガンダの絵画などが飾られている。

@一般人民にこの椅子を使わせてあげたい

 ホームに移動し、最後尾にあるモスクワ行の寝台列車に荷を置いた。その後はホームに再度降りて、編成の確認である。機関車を先頭に、荷物車2両、豆満江行の超ボロボロの座席車10両、そして最後尾がモスクワ行の寝台1両である。

@ボロ車両の豆満江行

 ツアー参加者の半分くらいと「先頭の機関車で記念写真を撮ろう」と言ってガイドと共に歩いて行ったが、運悪く軍人がいて、「来るな」という合図である。軍人に対してはガイドも何も言えないようで、仕方なく退散することにした。

@望遠で後方から撮影

 平壌から出発する数少ない列車であり、ホーム上は別れを惜しむような人もいる。他の国なら感慨深く思うが、それとは違って私が思ったのは、「こういう場面を作り上げる人すら、この国には少ないのだろう(他の人民は列車に乗ることすらないまま一生を全うするのだろう)」と思うと、不思議な気持ちになってしまった。
 先頭部分はさておき、ホーム上は撮影の制限もなく、いろいろと撮影した。

@子供が見送り(上層階級?)

@売り子

@ホーム全景

@モスクワ行車両は別世界

 出来ることなら豆満江行のボロ車両に乗って人民と同じ時間を共有したいが、さすがにそれは無理である。ロシア製の特別コンパートメントが、今晩の塒(ねぐら)である。
 定刻の2分前、7時43分にゆっくりと出発した。操車場には、ボロ車両が山のようにある。
 しばらく走行し、7時53分に最初の駅に到着した。詳細な時刻表がないので、駅名などは不明である。西洋人は話し好きが多いため、車内でもあれこれ話題が盛り上がっているが、私はそれよりも撮影第一である。

@ボロ車掌車

 それにしても、場所によっては超ノロノロ運転になる。最初は徐行かと思っていたがそうではなく、ちょっとした勾配=機関車の推進力がないため超低速になる、ということであった。
 周囲は農地が広がっているが、耕運機などは皆無である。基本的に手作業であり、より大きな力が必要な場合は牛だけが頼りである。見えてくるのは、自転車と徒歩と牛だけの世界である。

@バイクは高級品

 超低速(ランニングで追い付けそう)になり、小さなトンネルを抜けると、他の旅行記でも記述があった「阪急バスのお下がり」が左手に1台見えた。
 9時を過ぎると小さな町が近づいてきて、9時11分に平城(ピョンソン)に到着してここで貨物列車と行違った。
 10時10分頃、平壌に行く旅客列車と行き違った。その後は、電化されている支線などが現れるとその撮影をしたりした。10時35分頃には、丹東から平壌へ行く際にも見かけた小さな電車(車高が低いのでパンタグラフの形が変)を発見した。近距離鉄道であろうか。

@歪な形

 その後は人家も少なくなり、また景色は農地へと変わっていった。先述した通り農業は機械化されておらず、田んぼの中に人がいる場合はイナゴ採り(もしくはただ遊んでいるだけの子ども)である場合が多いが、ここで初めて農薬らしきものを散布している人を発見した(単なる水かもしれないが)。同室の英国人が「最初の化学物質を発見」と呟いていた。
 10時50分頃、またしても旅客列車と行違った。

@あちらもボロ車両

 同室で遅めの朝食を取っていた初老の英国人が、「昔、母親から『全部食べなさい。中国ではたくさんの子どもが死んでいるのよ』と言われたけど、時代は変わって今はそれが北朝鮮だ」などと言いつつ、口に合わなかったのか弁当の半分くらいをそのまま捨てていたのが少し面白かった。
 確かに、人民の生活は貧しい。電気はなく(これは我慢)、ガスもなく(メインは薪)、水道もないため洗濯は川である。

@今はまだしも、冬は大変

 11時少し過ぎに、シンソンチョン(漢字不明)に到着した。ここで我々もホームに降りることが許されたが、撮影は不可である。そもそも、ホーム上に同様に降りている他の乗客の半分弱は軍人なので、そういう意味でも撮影不可なのである(「駅を撮影してはいけない」というのは、正確に表現すると「駅のホームには軍人がいるから撮影してはいけない」なのである)。
 同駅を出発すると、晴れ間も多くなってきた。空調がない車両であるため、車内も少し蒸し暑くなってきた。
 岩が多くなり、また速度が下がってきた。モスクワ行のこの車両には2部屋ほど朝鮮人が乗っているコンパートメントがあるが、彼らは恐らく半強制的な出稼ぎであろう。

@大きな駅では売り子がいる

 それにしても、峠越えの途中にあるような小さな駅でも、2人の肖像画だけは綺麗に掲示されている。何度も書いているが、別の部分にもっとお金をかければいいのに、と思う。
 13時03分、とある小さな駅でスイッチバックをした。峠というわけでもないし、地形的にも何ら問題はないが、とにかくスイッチバック駅である。

@左手奥が駅(スイッチバック終了後)

 13時30分過ぎに、これまで姿を見せなかったガイド2人がラフな下着姿で起きてきた。昨日はマスゲームの関係でホテル着が22時頃であり、その後も今日以降に関する最後の仕上げの業務があり、そして今日も6時台の集合であったから、ほとんど寝ていなかった=車内で出発後に寝ていたのかもしれない。
 少し山深くなり、路盤も蛇行するようになってきた。おかげで、自室から前方の様子が見える場面も出てきた。

@先頭部分

 沿線の川では、相変わらず洗濯をしている人が多い。またそれ以外にも、洗髪をしている人も見かける。先ほども書いたが、冬はどうしているのであろうか。
 木々が多くなり、その合間には軍事施設らしきレーダーもある。鉱山も左手に見えてきた。まれに保線作業をしている人を見かけたりするが、やはり全体的に活気はない。子どもは無邪気であるが、その生活レベルはかなり低いことが安易に予想できる。

@子ども

 17時47分、またしても駅での下車が許された(長時間停車の場合に許されるようである)。他の車両からも多くの軍人が下車してたばこを吸ったりしているが、こちらを珍しそうに眺めている。
 同駅(高原(コウォン))を17時58分に出発した。再度坂になると、列車は時速20キロくらいになった。この辺りは人家も少なく、田んぼの手入れもかなり悪くて、雑草が3割以上混ざっていた。
 峠を下ると、また貧しい風景の連続である。子どもは無邪気で、列車の間際に立って「キャー」と騒いでいるが、大人にその活気は見られない。

@そろそろ廃車にした方が…

 18時を過ぎてから、昨日買った真空パック肉や北京で余らせていた温いビールなどで夕食を始めた(それにしても肉の堅いことときたら。ブロイラーではなく、親鳥を使っているのであろう)。

@ガムのよう(個人的には好きな食感)

 トンネルと橋の前後には必ず小屋があり、軍人が厳しい顔つきで立っているが、とある橋の前では若い女性軍人が思わず笑っていた。おそらく、この車両の西洋人がとてつもなく大げさに手を振っているからであろう。
 しばらくすると町が近づいてきて、左手にナローゲージの車両がたくさん見え始めてきた。これは帰国後に調べなければならない。
(「西湖線」という、咸興市内を走る全長17.6キロのナローゲージ鉄道であった)

@北朝鮮で初めて新しい車両群を発見

 18時15分、咸興(ハムフン)に到着した。夕食を始めたばかりであるがホームへの下車が許されたので、さっそく降りて行った。
 しばらくの間は喫煙中の軍人たちを見ていたのだが、同行の一部が「ビールを買えないか」とガイドに交渉して、そして無事に調達できることとなった。瓶ビール1本8,000ウォンもしくは1ドルということで、中途半端に飲み始めた身であるが私も相乗りすることにした。
 しばらくして大同江ビールが来たが、なんと冷え冷えである。冷たいビールの身に染みることときたら。

@冷え冷え最高(奥のパンは同室の旅行者の夕食)

 18時43分に同駅を出発。夕食を終える頃には、完全に日が落ちた。西洋人たちは話が長いため、私は上段に移って早めに就寝した。

■2018.9.14
 長時間の停車の雰囲気で眼が覚め、時計を見ると4時45分であった。その駅を50分に出発したが、もう起きることにした。
 外は、驚くくらいの暗闇である。稀に軍事施設らしきトーチライトがあるくらいで、あとは静寂と暗闇のみである。
 とある駅に停まったが、やはり暗闇であり、駅員は懐中電灯で作業をしている。しかしそんな状態でも、田舎駅の中央にある2人の肖像画だけには、燦燦とライトが当てられている。
 明るくなり、6時05分に吉州(キルジュ)に到着した。ここで機関車を後方に連結するようである。

@連結直前

 進行方向が変わるのかと思ったがそうではなく、後ろから押すようである(補助機関車)。日本でも、峠などではよくある風景である。
 同駅を6時22分に出発。しばらくして勾配になったようであるが、恐ろしく遅い。補助機関車の存在を疑うが、もし補助がなければもっと遅いのであろう。
 しばらくして、車掌(この車両だけで4人もいる)がキムチを持ってきた。無料か有料か不明であるが、請求されたところで大した額ではないであろうから、頂くことにした。
(結果的には無料であった。別室の豪州人がやたらチョコレートやビスケットを各室に振舞っているので、そのお返しだったのかもしれない)

@お裾分け

 7時30分にとある駅に停車し、補助機関車は外されていった(言うほどの峠ではなかったが、それなりに勾配があったのであろう)。ここでもホーム下車が許されたので、ホームに降りて前方側に居るたくさんの軍人の様子を見たりした。

@車内から後方の写真を撮るぶんには咎められない

 同駅を8時14分に出発。路盤が左右に蛇行しているので、前方の機関車の様子などを写真に撮り続けた。
 同室の西洋人が「Look!」と言うので左手を見たら、戦闘機である。なかなか興味深い地域に入り込んできたようである。
 沿線には小高い岩山が多くあり、その中腹にもスローガンが掲げられている。岩山の中腹でなにやら作業をしている人がいたが、やはり全部手作業である。

@大変そう

 しばらく走行すると、また駅に到着した。先ほど戦闘機を指摘した同室の人が、「あれ見てごらん」と言う。明らかに不自然に蓋がされており、「恐らく軍事用の品々などが備蓄されている倉庫であろう」というのが彼の想像であった。

@その想像も当たっていそう

 同駅を出発してしばらくすると、右手にやっと海が見えてきた。日本海(北朝鮮に言わせれば「朝鮮東海」、韓国に言わせれば「東海」)を、この角度から見るとは感慨深いものがある。
 海はすぐに見えなくなってしまったが、9時45分頃に再度見え始めてきた。

@国際的な呼称は「日本海」です

 10時01分にキョンソン(漢字不明)に到着し、ここでもホームに降りることができた。軍人の制服が何種類もあるので、西洋人たちは、ガイドも交えてどれが何軍でどれが階級が高いか、などを論じたりして暇を潰している。
 同駅を08分に出発したが、ホーム上には若い軍人がたくさん整列していた。然るべき大きな軍事施設が近くにあるのかもしれない(当然、写真は自粛)。
 それにしても、またしても停まりそうなくらいのスロー走行になってしまった(いっそのこと機関車は常時2両にしてほしい)。沿線には、寺院らしき建物も見える。

@なんとなく寺っぽい

 11時を過ぎるとビルも多くなり、久々にトラックなども見られるようになり、操車場にたくさんの客車が見えてきて、11時26分に清津(チョンジン)に到着した。
 ホーム下車が許されたので降りたところ、ローカル列車の始発駅ということもあって車両の入れ替え作業が何度も行われている。隣りのホームには数両の客車が停車しており、そこに数両分追加する作業が行われているようであったので、車内に戻ってその様子を写真に収めた。

@バック中

 しかし、作業全体が手旗と声掛けだけで行われているため、減速がきちんとされておらず、上記の車両は轟音を立てて停車中の車両にぶつかり(当然、連結器は繋がらず)、元からいた車両は50メートルくらいも押し流されてしまった。ちょっとした事故である(停車中の車内には係員が何人か乗っていたようであるが、ムチ打ちや打撲などの怪我をした可能性もあるだろう。打ち所が悪ければ骨折もあり得る)。
 ちなみに、機関車がない状態の客車を止めておく装置は石(バラスト)である(レールと車輪の間にバラストを挟み込む)。手ブレーキなどのない車両なのであろうか。いずれにしても、その石を置く駅員の手が動いている車輪に挟まれそうで、見ていて怖い。
 最初は「20分停車」ということであったが、なかなか動き出さない。12時半頃に補助機関車が後ろに連結されて「やっとか」と思ったがそれでも動かず、出発したのは13時06分(なんと1時間40分停車)であった。

@同駅出発後に見える貧しい家々

 長時間停車によって終着駅到着時間が読めなくなってしまったので、陽気な豪州人が「到着時間当て賭博」を提案した(掛け金は1ドル、1ユーロ、10元のいずれか)。私も1口乗っておく(結果的には外してしまったが)。
 その後も、川で洗濯する人などを眺め続けた。しばらくすると、右手に貨物用の施設(粉砕した鉱石の積み込み施設か何か)が見えてきた。これもなかなかのボロ施設である。

@真っ白

 沿線風景は相変わらず貧しいが、山の木々は多少残っている感じがする。住民がそこまで多くないので、「伐採されて薪に利用されて禿山になっている」確率が少ないのであろう。
 しばらくすると右手にまた海が見えてきた。漁村もいくつかあるが、家々の造りは貧しく、一律に黒い船も小さくてかなり古いものばかりである。

@もう慣れてきましたが

 15時55分頃、終着の羅津まであと20分程度(ガイド談)という、とある駅で停車した。というのも、羅津のある羅先特別市はいわゆる経済特区であり、外国人のパスポートチェックはもちろんのこと、北朝鮮人も特別な許可証がないと入ることができないのである(よって、平壌から随行してきた2人のガイドもここで下車し、別のガイドと入れ替わることとなる)。

@パスポートチェック中は写真撮影を控えた方が無難なので、同駅到着前に見かけた小さな機関車で代替

 パスポートチェックの後は税関によるチェック(ただし、明らかに荷物の少ない我々外国人のことはスルーして、北朝鮮人の部屋だけ調べていった)があり、16時55分になってやっと動き出した。
 トンネルに入ったが、なぜかここで停車である。トンネルを抜けると右手に港湾とクレーンが見え始め、17時36分に羅津に到着した。

@やっと町らしくなってきました

 事前に「荷物チェックがある」と言われていたが、外国人は建物の横から出たためノーチェックであった。専用バスで、ホテルへ(その前に銀行に寄って、ウォンに両替をした)。
 今日のホテルは南山ホテルであり、日帝時代に普請されたかなり古い建物である。普通は新しいホテルの方がいいが、北朝鮮の建設基準(建設中の様子を見ていると、柱1本に対してワイヤーがたったの4本、それらを繋ぐ四角形のワイヤーも、1本だけのものが数十センチおきにしかない)を考慮すると、却ってこの方が安心である。入口など、石造りの頑丈なものである。
 チェックインし、先ほど手に入れたウォンを使用して売店でビールを買って一献。その後は全員で食べきれないほどの夕食を頂いた。部屋に戻ってテレビを付けたが、BBCまで見ることができた平壌とは違い、ここはあの放送局1択である。

@こんな部屋

■2018.9.15
 さて、今日明日と近郊の観光である。平壌についてはそれなりに観光ブログがあるが、この地域に関してはかなり少ないので、鉄道とは関係ないが記述しておきたい。
 それにしても、今日も盛りだくさんの朝食である。この写真はあくまで「最初に準備してあるもの」だけであり、追加の料理があり、さらに個々人に副菜やスープやご飯が付くのであるから、もう大変である。何品か箸をつけ、ご飯等が出てくる前に会場を退散した。

@人民に分け与えたい…

 9時にホテルを出発し、まず向かったのは飲料工場である。水やジュース、マッコリ、焼酎などの工場であるが、ラインは小規模であり、手作業の部分もかなり多い。「これだけ発展している」というアピールかもしれないが、日本人にとっては物足りないであろう。なお、ここでは100人くらいが働いているという。
 続いての訪問先は、美術館である。一般の絵画はもちろんのこと、プロパガンダの絵画も美術として扱われているのが面白い。

@美術です

 続いては、靴工場である。工場内では、生地をミシンで縫う女性や、靴底を接着している男性などが作業している。しかしよくよくみるとレーンは動いておらず、作業すべき品物がなくなると隣りのゾーンまで取りに行って戻ってこなければならないようであった(電力を使わないようにしているのであろう)。
 真っ黒な肌になって痩せこけている人々を沿線で見てきた身としては、ここで働いている人は恵まれていると思う。恐らく薄給であろうが、生活環境がまだマシであることは、その肌の白さからも判断できる。

@ミシン稼働中

 その次の訪問先は、孤児院であった。孤児院といっても、大きな学校である。低学年の教室に近づくと「いかにも」な大きな歌声が聞こえてくるが、外国人の訪問に合わせてその様にするのが義務なのであろう。ツアーは11人という規模(列車内は12人であったが、1人はドイツ語ガイドと別行動をしている)であるため、比較的自由に建物内を歩くことができた。なお、廊下の電気がすべて消えているのは、当然のことである。

@歌唱中(振り付き)

 バスで旅行会社の建物(1階が食堂になっている)へ行き、あれやこれやの山盛り昼食を頂いてから、バスで20分ほど移動して古い町(漁業と農業が混合した町)へ行き建物を見学したりした。その足で遊歩道を歩き、待ち構えていた売店(露天)で一休みとなり、西洋人たちはタバコや飴などを購入していた。
 私はそういうのを買わないので海を見ていたところ、ツアーリーダーの英国人が「あれは第二次世界大戦終了時に沈没した日本船」と教えてくれた。この方が興味深いので、写真に収めておく。

@南無

 市内へ戻り、次は外国人学校である。英語クラスで交流を図るというものであるが、せめて5~10分かと思っていたところ、なんと1授業ずっと(40分程度)であった。
 豪州人と組んで3人の男の子の話を聞く。将来なりたい職業を聞いたところ、3人とも「軍人」であった(本当にそう思っているのか、そういう質問があったら軍人と答えるように教育されているのか、どちらなのかは不明)。たくさんあった質問のうち「アフリカに行ったことがあるか」と聞かれたので、「モロッコとエジプトはある。ピラミッドも見た。君は行きたい?」と聞いたところ、予想外に答えはNoであった(理由は「自分の国が好きだから」という)。これも、本当にそう思っているのか、海外に行きたいと思ったところで不可能であることを悟っているのか、どちらであるのか不明であった。

@開始前に挨拶

 またまた中心部に戻り、続いては大きな市場である(写真撮影は禁止)。内部に入ってみると、なんと1メートルおきくらいに売り子(おばさん)がいるではないか。人件費の概念というものが、まったくないようである。
 ここで1時間半ほど時間があったので、自由に歩き回った。ガイドの目もないので、少しだけ市場から外れた場所も歩いてみた。その気になればどこまでも行けそうであるが、その気にはならないので市場に戻った。
 同行のイタリア人は、黒系の人民服を買ってそれを着たりしている。私も少し考えたが、帰国してから着る機会がないであろうから、諦めることにした。
(なお、自由に歩けたのには理由があった。市場に入る前に「全員一緒でなくてもいいが、必ず他の誰かと行動してね」と言うことをガイドが忘れたらしく、後半になって結構慌てて我々を集めていた)

@写真は撮影できないので、市場付近にいた牛車で代替

 それからは高台にある劇場に移動して、子どもたちによる演技(歌、踊り、アクロバット、演奏など)の観覧である。マスゲームでも「うーん」と思うところがあって詳細な記述は控えたが、小さな子どもとなるとさらに「うーーーん」と思うところがある。賞賛も批判もしたくないので、1葉の写真だけに留めておきたい。

@たくさん練習したのでしょう

 1時間の公演を終え、続いて向かったのはテレコミュニケーションセンターである。というのも、参加者の一部が「どうしても国際電話をしたい」ということで、ここから電話するためである。パスポートがあればどの国でも通話が可能なようであるが、かなりの値段であるらしい。
 国際電話をしない我々は、外でスタジアムの向こうに沈んでいく夕日を眺め続けた。

@夕日

 敷地の隣りでは、勤務を終えた労働者たちがバレーボールをし始めた。何もすることがない我々はそれを見ていたが、そのうちに陽気な豪州人が一緒になってプレーし始めた(彼はコミュニケーション能力が高く、羅津到着前の賭け事といい、「盛り上がる」ことを常に考えている)。バレーの現場も、なかなかの盛り上がりである。
 続いての目的地は二択であり、「ビアホール」「公園を歩く」である。休肝日のない私がどっちにしたか? もちろん(期待を裏切って)後者である。というのも、歩ける機会の方が稀だからである。
 公園内を歩いていると、先ほどの豪州人が人民相手に遊具で競争(力比べ)をし始め、またしても大盛り上がりであった。

@笑う労働者たち

 海岸まで行き、折り返して出発地点に戻った。結果論からするとこの時点でまだ30分ほど時間があったため、後追いでビールもいただくことができた(1杯10元)。
 ツアーリーダーが「切符に興味のある人は」と言ったので、真っ先に手を挙げた。羅津までの切符(全員分はない)が数枚あるということで、ありがたく頂いた。
 暗くなってからホテルに戻り、またしてもあれやこれやの夕食である。今日は刺身(甘エビ)もあるようで、海外での生ものは怖いが、せっかくなので数匹頂いた。

@これ以外にも山のように出てくる

■2018.9.16
 昨日と同じく9時に出発し、まずは金日成花・金正日花の温室である。後者は日本人も関与しているものである。
 その後は、バスで30分ほど移動して養殖場の訪問である。峠道を越えると大きな石油精製所(現在はタンクのみ稼動)が見えてくるが、私はその後方で動いていた列車(豆満江方面から来たもの)の方が気になって仕様がない。

@慌てて撮ったのでピンボケ

 養殖場では、大小いくつかの魚が飼育されていた。そそくさと見終え、次の目的地はインペリアルホテルである。ここの売りは中国人観光客向けのカジノであり、私は賭け事には興味がないのでただ見ているだけである。30分くらいの滞在であったと思うが、同行のイタリア人は300ドルくらいも儲けていた。
 続いての目的地は、ホテルの先にある島である(旅程にはpipha islandとあるが、ハングルや漢字での標記は不明)。
 100元で遊覧船に乗れるということであるが、値段の割にはボロ船であるので、私は島の探検をすることにした。

@徒歩散策

 ガイドの金氏が、私だけに小声で「あの店でウニが安く食べられる」と言う。やはりウニは、日本人向けの食材なのであろう(最近になって、寿司の影響で少しずつ西洋人にも広まっているようであるが)。
 歩道だけでなく、沿岸などもコンクリートで整備されている。ここが外国人旅行客向けの観光地だからであろうが、もう何度も書いているが、人民が本当に必要としている場所を整備した方がいいと思う。

@北朝鮮にいることを忘れる

 遊覧船組を待ち、12時半頃にバスで移動して小高い山頂にあるホテルへ向かって、あれやこれやの山盛り昼食である。
 さて、ここから1時間半ほど移動してロシアと中国との国境へ向かう。最初のうちは舗装道路(と言ってもアスファルトではなくコンクリートであるため乗り心地は悪いが)であったが、すぐにダートとなったため、土埃を避けるために窓を閉めることを余儀なくされた。車内はバウンドし放題である。

@踏切を撮影

 ひたすらダートを走り続けると、奥に鉄道の車両が見えてきた。そして左手に見えてきたのが、豆満江駅である。世界地図では見てきたことがあるが、まさかこの国境の駅に来ることがあるとは、感慨深いものがある。

@できれば鉄道で来てみたい

 この次の目的地は朝露親善閣(北朝鮮とロシアの要人などが会談をしたりする場所で、過去の写真が展示されている)であるが、付近の道路が舗装化工事中であり、もう進めなくなったところでバスを降りて15分ほど歩くことになった。
 道路脇の土手を歩いてやっと道路と合流すると、その先にはロシアへ抜ける鉄橋に続く踏切がある。ここも工事中であったが、撮影しても良さそうであったので写真に収めた。

@この先はロシアへ

 親善閣では、女性ガイドの説明を聞いた(平壌でのガイドは普通であったが、ここのガイドは話し方が例の女性アナウンサー風であった)。なお建物に入る直前に3分ほど待たされたが、それは実は内部の電気が付いていなかったためである。帰る際に西洋人が「トイレを使っていいか」と聞いたが、水が流れていないため不可ということであった。こんな特別な場所でも、色々と大変なようである。
 その後はバスで少しだけ移動し、3か国を見渡せる地点に行った。写真では分かりづらいが、現在地が北朝鮮、左手に見える大きな建物が中国、橋の右手がロシアである。

@これまた感慨深い

 その後はひたすら1時間半以上かけてダートを走り、羅津へと戻った。次の目的地は市内にある港である。ゲートを通り、海際に行ってから自由行動となった(限られた範囲内であるが)。最初は使用されなくなった鉄道の引込線などを撮影していたのだが、ガイドに促されて別の方に歩くと、そこにあったのはあの万景峰(マンギョンボン)号ではないか! ニュースなどでは目にしていたが、まさかここに停泊していたとは(私がもっと馴染みがあるのは「万景峰92」の方であるが、こちらでも充分懐かしい)。

@例の船が目の前に

 リフレッシュ(トイレなど)のために宿泊先ホテルにいったん戻る。このホテルには北朝鮮ではかなり珍しい大型ビジョンがあるが、いつもはあの放送局が流れており(軍事関連や将軍様の偉業)、正直なところ見ている人はそれほど多くないようであった。しかし今日はアニメを放送しており(ガイド曰く、北朝鮮の時代劇)、いつもの3倍くらいは見ている人が多いようである。なんだかんだ言って、人民も正直なのであろう。

@こちらの方が人気(私の後方では大人も真剣に観ていた)

 それから高台にある別のホテルに移動し、まずは「キムチ作り体験」である(本当はギョーザ作り体験も予定されていたのだが、時間の都合で割愛された)。それぞれが作り終えてから、そのまま同じ部屋で最後の晩餐である。

■2018.9.17
 今日も、山盛りの朝食である。ずっと気になっていたのだが、北朝鮮の米はほとんどモチ米に近い粘りがある。
 食後は、出発までホテル前の広場を眺め続けた。というのも、通勤する人々を鼓舞するためか、今日も旗振り集団がマスゲームみたいな練習をしていたからである。

@毎日大変そう

 8時に出発してからは、最後の「プロパガンダポスターの撮影」などを行った。非日常の景色の連続も、今日で最後である(無事に中国に出られれば、の話であるが)。
 国境の町までは、バスで1時間程度である。いろは坂のような峠道を抜け、山を越えていった。
 とある地点で、ローカル鉄道の踏切を渡った。これで移動してみたいが、さすがに無理であろう。

@ローカル線

 遠くに川が見えてくると、ガイドが「川の向こうが中国」と言う。やっと、やっと中国に出られると思うと、気持ちが高まってきた。
 イミグレにて、電子媒体や荷物の検査を受けた。意外に厳しくなく、荷物は開けることもせず、PCも起動しなくてよかった(よって、昨日までに撮影したデータはすべて持ち帰ることができた)。
 今朝からのデータが入っているデジカメだけは検査され、2枚の写真(取替え中のプロパガンダと、踏切の後に撮影した田舎駅)だけが削除されていた(後者については、例の2人の肖像画がピンボケしていたためであろう)。それなりに時間はかかったが、現実問題として全員の全写真データを確認することはできないので、最低限のチェックしかしていないのかもしれない。
(ただしこれは結果論であり、もし訪朝するのであれば、写真撮影は慎重にすることが求められるであろう)
 バスで橋を渡り、審査を経て、無事に中国に入国した。

@もう自由な身に

 手配されていたバスに乗り、高速道路を飛ばして2時間ほどで延吉市内に入っていった(道路の路面がすばらしくスムーズである)。延吉西駅と空港でほとんどの参加者が下車し、2人だけとなって市内の各ホテルに移動した。
 12時少し前にチェックインし、ほっと一息してから図們への日帰り旅行をした。
 中国の安ホテル(3,500円程度)であるが、シャワーの水圧は北朝鮮の3倍くらいあるし、ベッドはふかふかであるし、何よりWi-Fiが使えてネットができるのが大違いである。日本から中国に行った際には、グーグルやヤフーなどの検索機能が利用できないため「なんて不便な」と思っていたが、北朝鮮から入国すると「なんて便利な」である。久々に、自由な身を堪能した。

@お疲れさまでした(安ホテルにてのんびり)

■あとがき
 渡航自粛が求められている中での訪朝であり、あまり褒められる行動ではないが、鉄道旅行という意味では稀有な経験ができたと思っている。それにしても、最終日に中国の圏河でパスポートにスタンプを押してもらった瞬間の安堵感は、やはり他の国への訪問とは全く違うものであったことを如実に示している。
 次の機会はないと思うが、万が一、いや億が一の確率で体制に変化があり、拉致や拘束、核開発や弾道ミサイルの懸念が払拭された場合には(完全に払拭されなくとも、その可能性が限りなく低くなれば)、もしかしたら再訪の可能性は残されているかもしれない。できれば、そうなることを願うが(人民の生活水準向上のためにも)、しかしながら、一筋縄では行かないことは百も承知である。

【旅行記の前半は、以下をご覧ください】

将軍様の鐡(前編)

【以下もご覧ください】

動画で補足・将軍様の鐡

写真で補足・将軍様の鐡

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